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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(47)

この長文記事は、「銀英伝をハーレクインロマンス化する」というコンセプトで書かれたブログ不定期連載小説です。原作準拠の世界観から、「リップシュタット戦役の最中に、高齢のリヒテンラーデ公がキルヒアイスよりに先に亡くなってしまった」というIFで始まり、そこから原作世界とは違う方向に話が進みます。主人公は、前述の事情で一部粛清や流刑を免れたリヒテンラーデ一族の一人、エルフリーデです。彼女が流刑になっている親族を救う為、ロイエンタールと政略結婚し、ハーレクインロマンスもどきのツンデレ恋愛劇を繰り広げるベタベタで甘々な夢小説です。所謂「ノーマルカップリング話」、「ロイエル小説」ってやつです。キルヒアイスを除く帝国&同盟の主要キャラの殆どが死なずに皆で幸せになる予定。作中唯一のハーレクイン男、ロイエンタール元帥のお子ちゃまぶりを愛でつつ適度にイジメてます。原作者のご意向に沿って、BL、801などはありません。1~2週間に一度ペースの更新頻度を目指し、今のところ60回程で終了予定です。
長くなってしまった為、ブログを辿るのが面倒だろうということで、読みやすいように、倉庫に収納しました。検索などではじめてここに辿り着き、「最初から読んでやろう」という奇特な方は、↑の「Log&Presents」をクリックしてこちらからどうぞ。ブログに掲載したものは、3、4回分ごとに、不定期に倉庫へ転載していく予定です。

新帝国歴1年11月17日、皇帝親征の本隊出征が間近に迫ったこの日、首都郊外の市民葬儀場では、ギゼラ・フォン・ボーデン夫人と、ブラウンシュヴァイク公爵令嬢エリザベートの葬儀が、ボーデン夫人の娘であるオティーリエを喪主として、しめやかに執り行われた。
 レンネンカンプの密葬が行われた11月1日に早くも初雪が降ったフェザーンは、この日も最低気温が氷点下になる寒い1日だった。
 葬儀自体は、いっさいのマスコミをシャットアウトして、回収された遺体の一部を火葬して骨壷に納めるだけの簡素なものであったが、故人が旧王朝に縁の深い人物であっただけに、参列者の面々は豪華だった。
 ひょんな事情から、現在ボーデン邸で暮らす皇帝主席秘書官が居るのは当然としても、入院中の皇帝高級副官のシュトライト中将までが、特別外出許可をとって車椅子で現れた時には、一同も流石に驚いた様子だった。
 他にも、喪主であるオティーリエ嬢の友人として、背中合せのロイエンタール邸からも身重の伯爵夫人が侍女を伴って葬列に加わった。また、サロン仲間でもあったということで、リンダーホーフ侯爵夫人ルトヴィカの姿もある。
 皇帝自身は、故人達とは全く面識がなく、しかも旧体制時代は敵対する側の人々であったので、流石に葬儀に行幸することはなかったが、それでも『ブラウンシュバイク家の三傑』の名は、ラインハルトも折りに触れて耳にしており、後継王朝の始祖として、宮内省に命じて皇帝の名に於いて、花と手向けの言葉を下賜した。
 小さな骨壷に納められたボーデン夫人の遺骨は、そのまま屋敷の庭の一角にオティーリエが建てた墓に埋葬された。
 人々は、香を炊き込め、納骨を済ませると、暫しの黙とうを捧げてから、地球時代の古より伝わるという死者を送る歌を口づさんで、儀式は1時間弱で終了した。
 エリザベート嬢の遺骨は、専門業者に委託してオーディンに運ばれ、ブラウンシュヴァイク家代々の廟の納骨堂に納められることになったという。
 命を落し、彼女の殺害に関わった人間以外と殆ど接触のなかったこのフェザーンに葬られるよりも、生まれ育ったオーディンで、元の忠義な使用人達や級友達の墓参を受けられる方が彼女も幸せだろうと、オティーリエやヒルダ達が考えた末に出した結論だった。
 外気温が低いことと、身重の女性や病人がいることから、葬儀は通常よりも短い時間で切り上げられ、人々は、ボーデン邸に引き上げて、葬祭業者が用意していた昼食を振る舞われた。
 オティーリエが喪主として、参列者達一人一人に挨拶を済ませた時、信託銀行の担当者と名乗る中年の男が現れ、生前、夫人から遺言を預かっていることを告げに訪れた。
「この度は、誠にご愁傷様でございます。このような時に、こちらへ参っていいものか迷いましたが、亡き夫人のご希望でもありましたし、上司とも相談の上で、早々に参上いたしました」
 実直そうな銀行員は、母を亡くして身寄りの無くなった年若い娘を気遣い、遠慮がちに来訪の意を伝えた。彼は、オティーリエと、ボーデン夫人が自分にもしものことがあった場合に娘の後見人に指名していたシュトライト中将の了解があれば、いつでも都合のいい日に弁護士を伴って再訪すると言う。
「私は構いません。リップシュタット戦役の頃から、母が何度も遺言を記録し直していたことは知っていました。私も早く知りたいと思いますので、シュトライト中将さえよろしければ、いつでもお願い致します」
 既にかなり回復し、この度の親征にも同行する許可が医師から出ているシュトライトは、明日再度の外出許可を取るので、出来るだけ早くお願いしたいと言ってくれた。親征まで時間がないという事情もある。
 銀行の担当者は、「かしこまりました」と即座に応じ、明日11時に弁護士と一緒に再訪することを約して帰っていった。
 翌日、時間ぴったりに現れた銀行の担当者は、ボーデン夫人が指定したという顧問弁護士を伴っていた。
 驚いたことに、30代半ばの有能そうなその男は、同盟人だと明かした。
 オティーリエは、何度か邸で母と事務的な話をしていた彼と挨拶を交わしたことがあったが、共にフェザーン語での会話だったので気付かなかったのだ。
 男は、簡単な悔やみを述べると、早速本題に入った。
「私の事務所は、あなたのお母様より、重要な任務を預かっております。その件に関しての莫大な報酬も銀行を通じて既に頂いておりますので、今日は遺言の実行と共に、それを伝える為に参りました」
 男の意外な言葉に、オティーリエは、少し身構えた。
 母の遺言は、遺産の相続に関するものくらいしか思いつかない。
 ボーデン夫人の相続人は娘のオティーリエ1人であるから、動産、不動産は全て彼女が相続する手続きをすれば終わるはずだった。他に考えられるのは、現金資産の一部を何かの慈善団体に寄付するくらいで、これはローエングラム政権になってからの資産家達の税金対策として、一般的な措置だった。
「まずは、こちらをご覧ください」
 そう言って、銀行の担当者は、貸金庫の中に保管していたメモリーチップを取り出し、テーブル上に再生して見せた。
 録画日付は、つい3ヵ月前の母の誕生日だった。
 ボーデン夫人に限らず、この時代の財産のある帝国人や、常に戦死の可能性が付き纏う軍人は、慣習的に自分の誕生日に毎年遺言を更新する者が多かった。
「私の愛する娘オティーリエ。あなたがこれを見るということは、私は何か不慮に遭って亡くなったということなのでしょう」
 自室の椅子に腰掛けて語る普段着のドレス姿の母の立体映像に、オティーリエは涙ぐんだ。
「あなたには、エリザベート様のお遊び相手として、子供の頃から随分と苦労をさせてしまいましたね。可哀想なことをしてしまったと、立場とはいえ、今更ながら親として申し訳なく思っています」
 ボーデン夫人の遺言は、意外にも娘への謝罪から始まっていた。
「そんな…私は、ちっとも…」
 オティーリエは、ハンカチで目を抑えながら、静かに首を振って母の言葉を否定した。 娘が将来、女帝となったエリザベートの側近となることは、娘自身の為でもあり、ブラウンシュヴァイク家の一門としても当然のことだ。それが正しい道だと、旧王朝時代のボーデン夫妻は信じて疑っていなかったという。その為、オティーリエには、早くからエリザベートの傍近くに仕えさせ、何事もエリザベートに合わせるよう言い聞かせて育てた。
 しかし、フェザーンに着いて、演劇という自分の道を見つけた娘の姿を見た夫人は、いかに今まで娘に対して我慢を強いてきたのかを思い知らされたという。
 利発なオティーリエが、凡庸なエリザベートに常に合わせるのは、大変なストレスだったことだろうと、自身も宮廷女官だった夫人は、娘への同情を禁じ得なかった。
 実際には、エリザベートは、賢くはないが鷹揚な姫君で、取り巻きの親族に対しては、特に我儘も言わず、むしろ年齢も近く聡明なオティーリエを慕っている風だった。オティーリエも、帝国貴族の娘として、皇帝の孫娘に仕えることに、疑問やストレスを感じたことはなかった。
 だが、平民生まれのボーデン夫人は、そもそもそれを感じることが出来ないこと自体が、旧体制下の愚民化政策に、無意識に感化されている証拠ではないかと言う。
「私は、愛するあなたや、あなたの子供達が、もう二度と誰かの血統に忠誠を誓って身を滅ぼすようなことになって欲しくないのです」
 解釈次第では不敬罪になりかねないボーデン夫人の言葉に、先に顔を上げたのはシュトライトの方だった。
 夫人の言葉が、自分の亡き夫や、アンスバッハを指していることは明らかだったが、同時に、それは今後、後代のローエングラム王朝の皇帝に忠誠を誓うことへの拒否ともとれた。
 夫人の遺言は、今はまだ若いラインハルト・フォン・ローエングラムが、将来旧王朝の皇帝のような臣民を顧みない暴君と化したり、彼の子孫である後継皇帝達が、忠誠を捧げるに値しない人物であった場合、オティーリエとその子孫達が、同盟に亡命できる手筈と資金を遺しているという、帝国人にとっては驚くべき内容だった。
「少なくとも、同盟では、最高評議会議長とやらの子供や孫が親の地位をそのまま受け継ぐことはないし、その部下達の家族が子々孫々忠義を尽くさなければならない義務もありません」
 長年の鬱屈を晴らすかのように、ボーデン夫人の言葉は強かった。
 そして、ラインハルト・フォン・ローエングラムが、ゴールデンバウム王朝を倒し、自ら全権を掌握して改革に乗り出したことは賞賛するが、その彼が、ゴールデンバウム王朝と同じ世襲専制国家の皇帝として新王朝の開いたことには失望したと、はっきりと言い切った。
 更に、このままでは、いずれ自分達がブラウンシュヴァイク家に縛られていたのと同じように、やがて後代の臣民達は、ローエングラム朝への忠誠心に縛られることになる。たとえ、どんな暗君でも暴君でも、ラインハルト・フォン・ローエングラムの子孫である限り、無条件に全帝国民は、彼に忠義を尽くさなければならない。
 そうなれば、結局遠からず先王朝と同じことになる。
 地球時代末期に散見した狂人的な独裁者達は、皆、最初は国民の圧倒的支持を集める開放者であり改革者であったという。彼等は、一旦人心を掌握すると、加速度的に我儘な独裁者へと変貌し、国家を私物化していった。
 フェザーンの地で、すっかり地球学の洗礼を受けたボーデン夫人ことギゼラは、この2年で旧体制の全ての柵から自分を開放していた。
「ギゼラの心配は尤もだと思うよ。だが、私は2つの理由で、彼女の心配は杞憂に終わると思っている」
 シュトライトは重い口を開いた。
 今正に、同盟領への侵攻を開始し、かの地を完全併合させてしまうというのが、皇帝の究極目標なのだから、それが成れば、「亡命」というもの自体がこの世から無くなる。
 また、ラインハルトと面識のない夫人が、そう考えたのは致し方ないのかもしれないが、シュトライト等側近達の目から見ると、どうもラインハルト自身は、実のところ、自分が世襲王朝の始祖となったという認識が薄いように思えてならない。
 帝国人にとって、国政の最高指導者とは皇帝<カイザー>であり、旧王朝がどれ程国民を虐げ、搾取しようとも、それを改め臣民を救うことのできるのもまた皇帝のみであるという絶対的な固定観念を殆どの帝国人が共有していた。
 500年間に渡る世襲専制国家の元で生きてきた帝国人にとって、その大前提を乗り越える発想ができる人間は、共和主義の異端者だった。
 下級とはいえ、帝国貴族の息子に生まれたラインハルトもまた、政治戦略では前例に捕われない画期的な改革者であったが、「絶対権を持つ国の最高指導者は皇帝である」という帝国人の常識から自由になることができなかった。
 彼が今少し視野が広く、地球学の導入が早ければ、或いは彼の呼称は、皇帝ではなく、大統領でも終身独裁官でもよかったのではないかと、今では密かに思っている節がある。側近であるシュトライトは、それを敏感に感じ取っていた。
 軍務尚書のオーベルシュタイン元帥も、国務尚書のマリーンドルフ伯も、即位直後から結婚を勧めているらしいが、当のラインハルト自身には、自分の血統を繋ぐという権力者が普遍的に欲してきた欲求すら乏しいように見えてならない。
「こんなことは、シュトライト中将の前に言うべきではないと思ったのですが、母は、ゴールデンバウム王朝を滅ぼして、自らまたローエングラム王朝の初代皇帝になった今の皇帝陛下に失望していました。今はよくても、いずれまた、自分たちボーデン家や、アンスバッハ准将のような思いをする人間が現れるのかと…」
「それは、あなたの母上のように、権力中枢に近い場所にいたからこそ生まれる発想だよ。文字を書き、生活していくのに必要な計算くらいしかできない大多数の一般の帝国人は、そうは考えられない。聡明で、臣民の為の政治を行う名君に治められるのが、自分たちにとって一番幸せなのだと単純に考えているのだよ」
 シュトライトが、つい過激な言動に走ってしまいそうな若い娘を穏やかな微笑を返しながらやんわりと窘めた。
「陛下は、ご自分の子孫が無条件に絶対権を行使していくような政体は望んでいらっしゃらない。ローエングラム王朝が続くことが、人類の為にならないと判れば、別の体制に移行することに躊躇いのない方だよ。だが、かと言って500年もの間、専制支配が染み付いてしまている帝国人に、今すぐに国政に参加せよと言っても無理がある。結局、国民全体の意識改革や自分達で民政を担えるだけに社会が成熟することが先決なんだ。その為には、短期的措置としては、絶対権力者による上からの改革で、できるものを強行してやってしまう。それから徐々に国民の政治への参加に門戸を開いていくのが、人類発展の近道だと私は考えている」
「国民が、政治に参加するのですか…? それでは、同盟と同じになってしまうではありませんか?」
 オティーリエが、帝国人として当然の疑問を口にする。
「陛下が密かに目指していらっしゃるのは、世襲でも選挙でもなく、その時代に尤も相応しい有能な人物が国政のトップに選ばれるシステムを構築することだと、私は思っている。だから二代目皇帝は、陛下の実子ではなく、その時点で陛下が尤も相応しいと判断した者が血縁のあるなしに関わらず即位するかもしれない。まあ、これはこれで、問題もあるだろうが、現在はまだ次世代の政治システムについては、模索中の段階なんだよ。しかしながら、陛下は御年23歳。このままご健在なら、あと50年は至尊の地位に在って人類社会の大改革を断行していくことだろう。後継者を本気で考えるころには、陛下より年長者の我々は、とっくにヴァルハラさ」
 シュトライトは、再び穏やかな微笑を非保護者の令嬢に返すと、ボーデン夫人の遺言の立会人として、いくつかの書類にサインをした。
 オティーリエは、まだ訊きたいことがあったのだが、躰の回復が完全はなく、出征を間近に控えた男に対して、それ以上の言葉が見つからず、昼食を共にした後、病院の特別仕様車に乗り込むシュトライトを玄関まで見送った。


 同じ頃、大本営の皇帝執務室で、久しぶりに主席秘書官用デスクの前に座ったヒルダに、オーディンから思いがけない朗報が届いていた。
 リップシュタット戦役以来、長く特別療養施設に入院中だった親族のレオポルド・フォン・フォイエルバッハ軍医大尉が、去る11月14日付で、暫定的ながら軍病院に職務復帰したという。
「まだ平日外来の助っ人として、1日4時間だけの勤務で許してもらっているだけです。完全復帰とは程遠いですが、今年中に通常任務に就けるようになりたいと思っております。いつまでも新政府の温情の甘えて、無駄飯を食べさせてもらうわけにもいきませんから」
 そう言って、照れ笑いを返す立体映像の親族の青年は、ヒルダがラインハルトの視察を仰いだオーディンでの最後の対面時よりも、大分血色が良くなり、黒く染めた髪が昔の面影を取り戻していた。
 ヒルダは、慈愛に満ちた微笑を立体映像の向けた。
 帝国医学会に一大勢力を有するフォイエルバッハ家は、7代前に分かれたマリーンドルフ伯爵家の支流であり、爵位こそないが、代々帝国医師会の理事や軍医総監を輩出してきた名門である。当主は代々、マリーンドルフ伯爵家の主治医を兼任する慣習となっており、レオポルドの父も医師会の副理事長と兼務でヒルダが生まれる前から伯爵一家の主治医をしている。
 そのような関係上から、リップシュタット戦役直前に、ヒルダが枢軸派に味方するよう身内の間を駆け回って説得していた時も、いの一番に同調した家の一つだった。
 軍医となったレオポルドは、この家の三男で、上の兄二人は医師の道を選ばなかったので、自然と彼には、ゆくゆくは父親の跡を継いで伯爵家の主治医になることは勿論、帝国医学会の重鎮となるべく将来も約束されていた。
 長兄と次兄も優秀で、オーディンの大学を出た後は、伯爵家の重臣として領地惑星の統治に力を発揮していた。ローエングラム王朝下で、多くの貴族が自主的に領地惑星を返納し、貴族の私有地や私有民が消滅した後も、長年の経験を買われ、新政府に行政官として継続雇用され、中央政府の派遣した執政官と上手く連携して領民の為の善政を施いているらしい。今年40になる長兄には、マリーカという娘がいて、高等専門学校や大学に行くよりも、フェザーンでヒルダに仕えることを希望して、現在オーディンの伯爵家の上屋敷の奥で行儀見習いをしているという。ヒルダも、侍女や召使いを雇うというよりも、子供の頃から自分を慕ってくれている親族の娘が傍に来てくれることが心強かった。
 しかし…
 と、レオポルドの立体映像の再生を終えたヒルダの蒼碧色の瞳に、深い影が挿す。
「面白い時代になるわ」
 若い黄金の覇者が創る新たな世に希望に胸を膨らませていた少女のヒルダには、一歩間違っていたら、私は永久に、レオポルドが精神を病んでしまったことも、改革の裏で、罪のない幼い命が気まぐれに奪われた事実も、生涯知ることがなかったのではないかと思って戦慄した。
 その自分の残酷な無邪気さを知る度に、勝者であるはずの自分に充てられる光の影に、血に濡れた敗者達の涙が存在することを知るのだった。
 枢軸派が一掃され、宰相となったラインハルトの主席秘書官に指名されるという異例の抜擢を受けた直後のヒルダは、ただもう目の前の仕事をこなし、新しい環境に慣れることに精一杯で、周囲をゆっくり見回す余裕もなかった。
 彼女が、軍医となっているはずの親族の青年が、何ヶ月も出仕していないことを知ったのは、幼帝誘拐事件の直後あたりのことであり、彼の姿が親族のどの会合にも見えなくなって久しかった。
 更におかしいと思ったのは、普段何事もザックバランに話すフォイエルバッハ家の人々が、レオポルドのことになると一様に言葉を濁し、最後には口を噤んでしまうことだった。
 仕舞いには、父親が「あれのことは、もういいのです。せっかく軍でお引き立て頂いたにも関わらず、お役に立てないばかりか、伯爵家の足を引っ張りかねないような仕儀になり、お詫びの言葉もございません。伯爵もフロイラインも、どうかあれのことはお忘れ下さい」と言って頭を下げたきり、黙ってしまった。
 マリーンドルフ家の縁戚でもある立場の彼等にしてみれば、レオポルドのことをひた隠しにしたかったのだろう。
 しかし、何事も筋の通らないことが嫌いなヒルダや伯爵は、彼等のその態度に、一層の不信感を抱いた。
 将来を約束された優秀な医師である彼に、いったい何が起こったのか?
 問い詰めようとするヒルダに、主治医である父親の口は重かった。
 結局、彼の不在の原因は知らされないまま、再び宰相主席秘書官としての仕事に忙殺される毎日を送るヒルダの元に、貴族女学院の同窓生名簿のネットワークから、ある嘆願書への署名運動が届く。
 発起人は、ヒルダ達よりも6学年下の、リヒテンラーデ一族の伯爵令嬢で、リップシュタット戦役後に、ローエングラム公暗殺未遂犯として連座させられ、流刑となっている一族の女性や子供達の赦免と、処刑された一族の10歳以上の男子の名誉回復だった。
「10歳以上の男子を処刑」と聞いたヒルダは、一瞬目の前が真っ暗になった。
 そして、この件と軍医であったレオポルドのことが、初めて頭の中で繋がったのである。
 ヒルダは、どのような事情であれ、人の命を救う為に医師を志した若者に、幼い命を奪う仕事をさせてしまったことへの自責の念に苦悩した。
 しかし、起こってしまったことは元には戻せない。
 過去には戻れないのだったら、彼の苦しみを無駄にしないためにも、自分の立場でできる限りのことをしよう。
 偶然墓地で八合わせたエルフリーデを療養所に誘って彼と対面させたのも、秘書官の権限をフル活用して皇帝のスケジュールを調整し、ラインハルトに視察を仰いだのも二度とこのような悲劇を起こさせないという強い決意からだった。
 実際、レオポルドは、ヒルダがエルフリーデを連れて見舞った日から、目に見えて回復し始め、殆ど悪夢にうなされることも、発作を起こすこともなくなっていた。
 更に、皇帝が行幸し、労いの言葉をかけられて以来、常に脳波は正常値を示すようになり、専門医から退院と一部業務への復帰の許可を得られた。
 ヒルダは、席を立つと、皇帝の執務机の前で書類に没頭するラインハルトに向かって、フォイエルバッハ軍医大尉が、オーディンで一部職務に復帰したことを報告した。
 視察以来、ヒルダ以上に彼のことが心にかかっているラインハルトは、職務へ完全復帰した後は、自分の侍医団に加え、ゆくゆくは主治医とするように指示しておいたのだった。
元々進取の気風に富み、学生時代から地球学の医療分野にも感心の高かったレオポルドは、療養期間中も無為に過ごしていたわけではない。
 たとえ現場を離れても、医師としての性なのか、ほぼ無制限に時間があることを有効に利用し、ゴールデンバウム王朝時代には閲覧を禁止されていた地球時代末期の医学書をフェザーン経由で手に入れては、貪欲に吸収していることをヒルダは知っていた。彼がラインハルトの侍医団に加わることで、また少し歴史の歯車が狂い始めることを、この時は誰も予測できない。
 レオポルドが正式にフェザーンに転属し、皇帝の傍近く仕えるようになるのは、この度の大親征から戻ってきてからのことになるだろう。
 数多くいる軍医の中で、敢えて彼を自分の主治医に指名したのは、あの事件を忘れない為の、ラインハルトなりの自戒なのだとヒルダは理解した。


 11月20日夕刻、いよいよ皇帝の本隊がフェザーンを発つという日の前日、ロイエンタール邸では、皇帝を除く明日出征予定の高級幕僚達を招き、戦勝の前祝いの兼ねた晩餐会が元帥夫妻の主催で開かれようとしていた。
 この夜のエルフリーデは、この当時から巷で『トリスタン・ブルー』と呼ばれるようになった濃紺のイブニングドレスを着て、夫人らしく髪を夜会巻きにまとめていた。帝国軍の勝利と夫とその僚友達の無事の帰還の願っての選択だった。
 同居している叔父のゴットルプ子爵夫妻も同席するとあって、男の軍人ばかりが圧倒的に多いのもバランスが悪いと理由をつけて、エルフリーデは、最近離婚して近所に引っ越して行ったフレデリーケと、ボーデン邸に起居する住人全員も招待した。
 少将に昇進したばかりのリンザーはおまけのようなものだったが、ヒルダやオティーリエと、ヘレーネ達4人と、元寵姫のダニエラまでが正装して加わると、場が一気に華やいだ。
 エルフリーデは、手筈通り、フレデリーケのことを「フロイライン・ヒルデスハイム」として紹介すると、さり気無くミュラーの左隣の席へ案内した。右隣に座るのはヒルダで、その隣は叔父のゴットルプ子爵を配したので、エルフリーデの思惑を知る二人は、同じ一門で同じ大本営勤務ということもあり、共通の話題も多く話が弾んでいる。フレデリーケのもう一方の隣には、寡黙なベルゲングリューンを配し、その隣は密かに彼に憧れるアレクサンドラ・シェスター少尉の席だったので、必然的にミュラーとフレデリーケは、7年間の空白を埋めるべく、ぎこちないながらも互いの近況やら明日の出征についてなど、少しずつ自然体で話を始めていた。
「このようなことになってお恥ずかしいですわ」
 フレデリーケは、貞淑な帝国夫人として、自らの離婚を一応卑下した言い方をした。だが、その表情には卑屈さは微塵もなく、どこか吹っ切れたような、未来への希望を感じさせるような瞳の輝きがあった。
「今の貴女こそが、私の知る7年前のあなたに見えます。新王朝では、貴族も平民も幸せになれる世の中になります。私も微力ながら、陛下のお創りになる新しい世界の一助になりたいと思っております。どうか、フロイラインも、これからお幸せになって下さい。そして、昔のように、無骨者の私に、色々とご教示下さい」
 ミュラーは、そう言うと、二人で過ごした7年前の珠玉の時を懐かしんだ。
 フレデリーケの方も、記憶の糸を手繰り寄せるようにミュラーとの会話に入り込んでいき、晩餐の約2時間の間に、7年の時間差を急速に埋めていった。
 しかし、結局この夜の二人は、エルフリーデが期待したようにはならなかった。
 フレデリーケは、食後のデザートとコーヒーを飲み終えると、裏口から庭伝いに帰るボーデン邸の一同とほぼ同時に、正面玄関に呼んだ無人タクシーで、自分のコンドミニアムに帰っていった。次いで、大将クラスの幕僚達が、それぞれのゲストハウスや宿舎へ戻ると、場所をサロンに移して、ロイエンタールにウィスキー一杯付き合っていた上級大将達も、明日の出征を見据えて、長居せずに引き上げていった。


「残念だったな。お前の期待通りにはならんかったようだ」
「まだわからないわ。お二人はやっとスタートラインに立ったところなんですもの。全ては、ミュラー提督がご帰還された後のことだわ。あの方は、お前と違って、相手の気持ちを考える方ですもの。フレデリーケ様と、お付き合いされるには、時間が必要だわ」
「そんなことを言っていたら、互いに爺さんと婆さんになっちまうぞ」
 そう皮肉めいて笑うロイエンタールは、一緒にボディーソープで泡立ったバスタブの中に入る幼妻を引き寄せると、海綿スポンジで肩や背中を擦ってやった。無論、白磁の肌には汚れなどない。これも一種のスキンシップだし、この男の遊びのようなものだ。そう判っているから、エルフリーデも、出征を明日に控えた夫の好きにさせていた。
 大人の正装としての夜会巻きを解き、化粧を落とした姿は、身ごもっているとはいえ、まだ明らかに少女の身体だ。
 ロイエンタールは、少女と女が同居するエルフリーデの身体に、自分でも驚くほど執着していることに時折気づかされる。
 そして、彼は任官以来、始めてもう一度、この女のところに戻ってきたいと心から願うようになっていた。
 生きて、帰って、もう一度この乳白色の陶磁器のような肌に、思う存分自分を重ねるのだ。
 その時、この女は出産し、彼の息子を抱いているのか?
 或いは、風船のようなお腹を抱えて、彼の凱旋を迎えるのか?
 いずれにしろ、常に戦場に身を置くことに自らの存在意義を見出してきたロイエンタールにとっては未曾有の感覚だった。
 今までの彼にとって、戦場で味わう高揚感に比べれば、彼の無事を祈る女達の愛など、煩わしいだけだった。
 だが、この無謀で一途な年齢半分の女のところには、真情から還りたいと思った。
 還ってもう一度、その肌に触れたいと思った。
 それは、この稀代の名将を言われた男が、初めて、凡百の兵士達の心を知った瞬間でもあった。
 エルフリーデは、あまりにされるがままに身体をスポンジでまさぐられているのも何だか癪なので、もう一つあった海綿スポンジに泡を付けると、ロイエンタールの背中を軽く擦り始めた。
 先月の爆破テロで負った大火傷は、皮膚再生が順調に進み、フェザーン式の包帯も一昨日取れたばかりである。まだ、背中全体に赤黒く変色している箇所や、醜いケロイドになって盛り上がっている部分があるが、傷を消す特殊軟膏とレーザー照射を定期的に充てることで、数ヶ月で跡形もなくキレイになるという。
 エルフリーデは、傷が無くなることを安堵する反面、自分とこの男の心を繋いだ証がなくなってしまうことへの寂しさのような感覚も覚えていた。
「名誉の負傷だからな。ある程度消えたら、少し記念に残しておくか?」
 エルフリーデの心中を見抜いたかのように、ロイエンタールが冗談とも本気ともつかないようなことを言う。
「まさか、ちゃんと治るものをわざわざ残す必要などないわ。それに…」
 と、言いかけて、エルフリーデは口を噤んだ。
 自分たちの絆は、そんなものが消えても、ずっとこれからも続いていくのだから…
 言葉にできない代わりに正面を向くと、自分がされたのと同じように、夫の身体を丁寧に海綿スポンジで洗ってやった。
 ロイエンタールは、満足そうに、至福の時に身を委ねる。
 エルフリーデは、エルフリーデで、また別の思いに耽っていた。
『ミュラー提督とフレデリーケ様は、結婚しても絶対にこんなことはしないわ』


 新帝国歴1年11月21日1200時、帝国軍の本体は、フェザーン宙域を離れ、同盟領に向けて、最初の跳躍<ワープ>航法に入った。
 この時、遠くオーディンの地で、銀河の歴史が変動する事件が起ころうとしていることを、まだ誰も知らなかった。

コメント一覧

べる (06/20 20:15) 編集・削除

>それは、この稀代の名将を言われた男が、初めて、凡百の兵士達の心を知った瞬間でもあった。


くくくくく。
戦闘に弱くなってたりしたら………。
くくくくく。

お久しぶりです。
まっておりました。

Jeri (06/21 00:59) 編集・削除

>べるさん
お久です☆
遂に真実の愛に目覚めたロイロイ。(このフレーズ書いててはずかしいなw)
今まで「死んだら死んだでいいや」的な戦争ばっかだったのが、「絶対に無事凱旋して、もう一度エルをやるんだ!!」と思ったロイさんは、以前より強くなっているのか、安全策を取りすぎて弱くなってしまったのか、今後の見ものです。
最後までダメダメくんのマザコン元漁色家を暖かく見守って下さいませ。

エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(46)

はじめに

 この長文記事は、「銀英伝をハーレクインロマンス化する」というコンセプトで書かれたブログ不定期連載小説です。原作準拠の世界観から、「リップシュタット戦役の最中に、高齢のリヒテンラーデ公がキルヒアイスよりに先に亡くなってしまった」というIFで始まり、そこから原作世界とは違う方向に話が進みます。主人公は、前述の事情で一部粛清や流刑を免れたリヒテンラーデ一族の一人、エルフリーデです。彼女が流刑になっている親族を救う為、ロイエンタールと政略結婚し、ハーレクインロマンスもどきのツンデレ恋愛劇を繰り広げるベタベタで甘々な夢小説です。所謂「ノーマルカップリング話」、「ロイエル小説」ってやつです。キルヒアイスを除く帝国&同盟の主要キャラの殆どが死なずに皆で幸せになる予定。作中唯一のハーレクイン男、ロイエンタール元帥のお子ちゃまぶりを愛でつつ適度にイジメてます。原作者のご意向に沿って、BL、801などはありません。1~2週間に一度ペースの更新頻度を目指し、今のところ60回程で終了予定です。
長くなってしまった為、ブログを辿るのが面倒だろうということで、読みやすいように、倉庫に収納しました。検索などではじめてここに辿り着き、「最初から読んでやろう」という奇特な方は、↑の「Log&Presents」をクリックしてこちらからどうぞ。ブログに掲載したものは、3、4回分ごとに、不定期に倉庫へ転載していく予定です。

 1900時を回っても、立食パーティはまだ続いていた。
 ゴットルプ子爵を見送ったツェルプストは、猛烈な勢いで頭を回転させていた。
 今、自分の将来の為に、どう動くべきか。
 即ち、あの美しく魅力的な伯爵令嬢を手に入れる為には、どうするべきか。
 彼の思考はその一点に絞られている。
 その時、上司である宮内尚書の秘書官の一人が、尚書閣下がお呼びだと伝えに来た。
 ツェルプストは、一旦思考を打ち切ると、上司のいるホールの壁際に寄っていった。
 宮内尚書ベルンハイム男爵は、丁度、壁を背にして、控え室に続く通路近くにいた。
 だが、いつもは温厚で常に穏やかな笑を絶やさない男爵が、この時は見たこともない厳しい表情をしていた。
「奥様はどうされたのですかな? 子爵」
 ツェルプストは仕方なく、事情を正直に説明した。
「左様ですか。それでは致し方ございませんな。しかし、子爵、皇帝陛下は、臣下の私生活に干渉するような方ではないが、節度のない人間はお嫌いでいらっしゃる。あなたもそれをよく覚えておかれるが宜しい」
 冷水を浴びせかけられるとは、まさにこのことだった。
 ツェルプストは、去っていく宮内尚書の背中を見送りながら、暫く呆然とその場に立ち尽くしていた。
「ねえ、あの最前列にいた趣味の悪い女、誰よ?」
「誰のこと?」
「ほら、あのやたらでっかいエメラルドをこれみよがしに付けてた女よ。全く、今日の式典を何だと思ってるのかしら」
 ふと気づくと、後方で若い女性達の声が聴こえた。
 声の主は、エルフリーデの書いたシナリオを演じる、ヘレーネ、ベアトリス、サーシャ、アンナの4人組だったが、無論、ツェルプストはそんなことは知らない。
 4人は、ヒルダと共に今回の爆破テロ事件解決に貢献した功績が認められ、揃って少尉に昇進していた。
 だが、宮内尚書の言葉に自失状態のツェルプストには、振り返って彼女等を睨み付けるだけの気概はなかった。
「知らないの? 宮内省次官のツェルプスト子爵のご側室様よ」
「ええ? あれがそうなの? 何か、がっかりだわ」
「本当よねぇ。ツェルプスト子爵って、マリーンドルフ一門だし、あの歳で次官でしょう? 本人も結構ハンサムで洗練されてるのに、女の趣味は悪かったのね」
「確かにそうよね。今をときめくマリーンドルフ一門の貴族なら、側室のなり手なんて、いくらでもいそうじゃない? それをよりによって、何であれなのかしら?」
 その一言に、ツェルプストは、電流に打たれたように固まった。
 そうだ。そうなのだ。何で今まで気付かなかったのだろう。
 自分は別に、今の女を特別気に入って側室にしたわけではない。
 元々好みのタイプでもなかった。
 ただ、親族にすすめられるままに半分人助けのつもりで面倒を見ることになったら、懐妊という予期せぬ慶事が起こった。
 その歓びが、我を忘れさせ、冷静さを失っていたのだ。
 フレデリーケと結婚して7年、側室の女が懐妊するまで、ツェルプストはずっと自分達夫婦に子供ができない原因は、自分の方にあるのではないかと密かに疑念を抱いており、ただでさえ格上の家柄出身の妻に対して、常に負い目を感じていた。
 彼は、病弱とまではいかないが、決して頑健な方とは言えず、対してフレデリーケは、出会った当初からスポーツ万能の健康的な女性だったし、ヒルデスハイム伯爵家自体が多産系で長寿の家系である。
 だが、先進医療を受けて不妊原因を突き止めることも、不妊治療を行うこともしなかったのは、原因を決定付けられることにより、自分が男として足りない者である事実を突き付けられるように思えて怖かったからだ。それ故、敢えて現実から逃げていたのだった。
 だからこそ、元々大して好きでもなかった妾の女でも、懐妊したと知った時の喜びは言葉に言い尽くせないものがあった。
 だが、考えて見れば、あの女が懐妊したのなら、他の女性だって妊娠させることができるはずだ。
 ならば、自分の跡継ぎとなる息子を産むのは、あんな女よりももっと相応しい女性がいるはずだ。
 美しく、聡明で、血筋も良い女性。あのマールバッハ伯爵令嬢のような女性こそが、自分には相応しい。
 ツェルプストは、天啓を受けたようにそう思った。


 大広間中央の大テーブル脇に、数名の若いフェザーン人達に囲まれたマールバッハ伯爵令嬢の姿を見つけたツェルプストは、さり気無く彼女等に近づき、距離を縮めていった。
 耳を澄ませていると、令嬢は流暢なフェザーン語で、こちらの財界人の子弟らしき若者達と、会話が弾んでいる。会話の内容は、他愛の無い世間話らしいが、さりげなさの中にも彼女の深い教養が感じ取れ、ツェルプストは益々マールバッハ伯爵令嬢に惹かれていった。
「やあ、フロイライン・マールバッハ」
 会話が途切れた僅かな隙を見計らって、ツェルプストはオティーリエ扮する伯爵令嬢に声をかけた。
「これは、子爵様…」
 既にかなり前から彼の視線を感じていたオティーリエだったが、今初めて気づいたふりをして、ゆっくりと膝を折る。
「いや、今宵は無礼講ですから、堅苦しい挨拶はなしにしましょう。それより、フロイラインは、フェザーン語がお上手ですね」
 お世辞でなくそう褒めると、オティーリエは、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「まあ…聞いていらしたのですか? お恥ずかしいですわ。学校で習っただけで、実際にフェザーン人の方とお話しするのは今日が初めてでしたの。皆様がゆっくり話して下さったお陰で通じたので、とても嬉しいですわ」
 謙虚に微笑する令嬢に、ツェルプストは更に好感度を上げた。
「とても初めてとは思えませんでしたよ。その分だと、学校の成績もよろしかったのでしょうね」
「高等科卒業の時は、銅メダルを頂きましたわ。でも、私など、フロイライン・マリーンドルフには及びもつきませんわ」
「ほう…それは…」
 ツェルプストは、感嘆の声をあげる。
 貴族女学院の高等科を学年3位で卒業するとは、かなりの才媛と言えた。
 ヒルダのように、帝国大学に入学できるレベルかどうかは微妙だが、帝国人女性としては、ハイレベルの学識と教養を身に付けていることは間違いない。
 いずれにしろ、同年代の妾とはえらい違いである。
 オティーリエは、謙遜しながらも巧みに自身の聡明さをアピールすることに成功した。
「すると、フロイラインは、こちらで大学に進学をお考えですか?」
 ツェルプストは、特に深く考えず、会話を繋げる為に何気なく訊いてみた。
 ここから先の台本はないから、オティーリエは、アドリブで乗り切らなければならない。
「そんな…私なんかが大学だなんて…」
「フェザーンでは、女性も当たり前のように大学や大学院に進学しますよ。入学資格を取得すれば、年齢制限もないから、若者だけでなく、子供から老人までも学ぶことができますよ。女性だって、結婚していても、子供がいても、本人の意思次第で入学できます。現に、コールラウシュ伯爵夫人だって、来年度の大学進学を名言しているそうじゃありませんか」
「それは…伯爵夫人は特別ですわ。あの方は、何でもご自分のなさりたいことができる方ですから。でも、私は…父が古い考えの人で…」
「これからは、帝国人女性の高等教育を受ける割合が増えるでしょうし、また、将来の為にもそうしていかなければならないというのが、新政府の方針です。女性だからといって、優秀な方が学ぶ機会を奪われてはいけませんよ」
 ツェルプストは、聡明だが古く頑迷な貴族社会に縛られてる姫君に、物分かりのいい男を演じて点数を稼ごうとした。
「やはりマリーンドルフ家の御一門の方は、開明的でいらっしゃるのですね。子爵様のご家族が羨ましいですわ」
 オティーリエは、即座に相手の意図を察して、絶妙なアドリブを返しながら、憧憬のこもった瞳で目の前の青年を見詰めた。
 ツェルプストは、胸の裡で快哉を叫んだ。
 これで、この女性は自分に好意を持ったと確信した。


 翌11月6日の退庁後、ツェルプスト子爵は、大本営に近いとある高級クラブで、赤ワインのグラスを空けながら、待ち人が来るのを待っていた。
 20時を5分程過ぎて、漸くその人物は現れた。
「お待たせして申し訳ない。ちょっと仕事が立て込んでしまいまして…」
 ゴットルプ子爵エドアルドは、そう言いながら待ち合わせに遅れたことを詫びた。
「とんでもない。こちらこそ、お忙しいところを急にお呼び立てして申し訳ございません」
 二人は軽く握手を交わすと、ツェルプストは、ゴットルプ子爵に席を勧めた。
 豪華なソファーに並んで座ると、まずは新たに注文したウィスキーで乾杯し、ツェルプストは、早速本題に入った。
「単刀直入に伺いたいのですが、子爵はもし私が本当に独身なら、フロイライン・マールバッハに求婚する資格があるとお考えですか?」
 ゴットルプ子爵は、内心でしてやったりとばかりにほくそ笑んだ。
 本来、旧典礼省から業務を引き継いだ宮内省の次官というポストにあるツェルプストならば、帝国中の貴族の戸籍データにアクセスすることが可能であり、そうすれば、現在のマールバッハ伯爵家に、娘はいないことくらい容易に知ることができた。ゴットルプ子爵も、それを想定して、わざわざ式典の前日にサーバーに侵入してデータの改ざんを行なったくらいである。
 身分制度が事実上崩壊した現体制下では、貴族の血統データなど機密事項でも何でもなくなった為、このハッキングは比較的簡単だった。無論、この一件が終われば、元に戻しておくつもりでいたのだが、目の前の美味し過ぎる餌にすっかり夢中になったツェルプストは、そんな基本的なリサーチすらするのを忘れていたらしく、データにアクセスした形跡はない。
 これでこの計画は成功だ。本当は、もっと時間をかけてその気にさせるつもりだったが、相手は思いの外早く餌に食いついてくれた。エルフリーデがさぞ喜ぶことだろうと思いながらも、ここは一つ、もうワンクッション置く為に、わざと困惑顔を作った。
「それは…勿論そうですが…しかし、今の状態ではまずいですよ。そちらの奥様とマールバッハ嬢は、同じ邸に暮らしているわけですし。前の妻と新しい妻が同居しているというのも…かと言って、今の奥様には、もう帰るご実家もないわけでしょう?」
「それは私も考えました。妻には、離婚するに当たり、相応の財産分与をするつもりです。その金で、フェザーンに残るもよし、オーディンへ帰るもよしです。彼女が暮らしていくのに不自由しないだけのものは慰謝料として渡すつもりでおります」
 これで、この計画は、完全にエルフリーデの筋書き通りになった。
 しかし、ゴットルプ子爵は、それでも今一度苦い表情を作った。
「ご側室の女性とお子さんはどうするおつもりです? ご令嬢が日陰者のような立場になっては、私がマールバッハ伯に何と言われるか…」
「それもご懸念には及びません。側室とその両親と子供は、官舎の邸の修繕が終わっても中には入れません。郊外にでも家を買って、そこへ住まわせるつもりです。子供はあくまでも庶長子です。爵位を継ぐのは、正妻の産んだ子ですから」
「なるほど。子爵がそこまでお考え下さっているとは。…解りました。そういうことでしたら、及ばずながら私も力になりましょう」
 ゴットルプ子爵が軽く胸を叩く仕草をして引き受けると、ツェルプストは、両手でがっしりと手を握ってきた。
「ありがとうございます。ゴットルプ子爵。恩にきます。これは、些少ですが、お受け取り下さい」
 ツェルプストはそう言うと、ポケットから金色のマネーカードを取り出して手渡した。縁談や官職を世話してもらった際に貴族社会で行われてきた、古くからの慣習である。金額はピンきりだが、こういった頼み事の場合は、だいたい一般家庭の月収の3ヶ月分程だと言われている。
「これはこれは。では、遠慮なく頂戴致します」
 ゴットルプ子爵は、俗物の仮面を被ると、ツェルプストに話を合わせてカードをポケットに仕舞った。
『ふん、これだから貴族ってやつは…』
 ツェルプストに迎合する態度とは裏腹に、平民として少年時代を過ごしたゴットルプ子爵エドアルドは、内心でそう舌打ちしていた。


 11月9日午後、ロイエンタール邸に暮らすフレデリーケの元に、ツェルプスト子爵の代理人と称する弁護士がやってきて、協議離婚の条件を提示してきた。
 子爵は、現在所有する現金資産の4分の1を慰謝料として支払うことを条件に、フレデリーケができるだけ速やかに離婚宣言書にサインし、現在仮住まいしているロイエンタール元帥邸を出ることを望んでいるという。
 提示された慰謝料の金額は、このフェザーンでもオーディンでも彼女が家政婦の一人でも雇って暮らす家を買い、特別な贅沢をしなければ、10年は暮らしていけるのに充分な金額だった。
 ツェルプスト家は、リップシュタットで滅びた多くの門閥貴族と違い、爵位も資産も一応安堵されていたが、それでも旧王朝時代の特権の殆どを失い、領地惑星や荘園を自主的に新政府に返納していた。その為、身代は旧体制下の時代に比べて大幅に縮小していた。
 そんな中で、現金資産の4分の1という金額は、夫なりの自分に対する誠意にも思えたのだ。
 フレデリーケは、その場で差し出された書類に淡々とサインをすると、7年間の結婚生活は呆気なくピリオドが打たれた。
 エルフリーデの裏工作を知らない彼女は、夫が突然離婚を決意した理由を、側室との間の子を嫡出子として育てたいと思い直したからだと理解し、離婚条件としては少々意外に感じられた、この邸を出て新居を構えるという条件にも、自分が気まずい思いをしたロイエンタール元帥夫妻の近くに、元の妻が居るのが煙たいのだろうと解釈した。
 この日から、彼女は晴れて旧姓のフレデリーケ・フォン・ヒルデスハイムに戻り、7年ぶりに昔の名を名乗ることとなった。
 翌11月10日、バーラトの和約が正式に破棄され、ビッテンフェルト提督率いる黒色槍騎兵艦隊の先発隊がフェザーンを発ったこの日、フレデリーケは、再び訪れた弁護士が持参したマネーカードを受け取ると、これで離婚に関する全ての手続きが完了した。
 フレデリーケは、早速新生活を始める為の情報収集を行い、その日のうちにオンラインでフェザーン都内のいくつかの物件をピックアップし始めた。
 エルフリーデも侍女達もゴットルプ夫妻も、もう暫くの滞在を勧めたが、フレデリーケは、できるだけ早く独立したいと言い、12日には、早くも近くのメイドサービス付きのコンドミニアムを契約してしまった。
 エルフリーデ達の住むロイエンタール邸からは、徒歩で10分程の距離であり、最近日参しているスケートリンクにも近い。
 せめて今月いっぱいくらいまではここに居てもらってはと言うシュヴァイツァー夫人やゴットルプ子爵夫人等の意見に、エルフリーデはそれ以上フレデリーケを引き留めなかった。
 彼女がこの先、帰還したミュラーとの仲を進展させる為には、この邸を出て一人になっていたほうがいいと判断してのことだった。
 吹っ切れた様子のフレデリーケは、これを機に、大学の通信教育を受けたり、統一された新ルールのフィギュアスケートのジャッジ資格を取得する為の勉強もしたいと言って瞳を輝かせた。
 昔の溌溂さを取り戻し、慌ただしく引越しの準備を始めたフレデリーケを、エルフリーデは眩しそうに見詰めながら彼女の幸せを願っていた。


 11月15日、ミッターマイヤー元帥率いる艦隊が、フェザーンの領宙域を離れ、いよいよ同盟領に向けての親征が本格化すると、帝国軍本隊の出征準備も急速に進められていた。
 ロイエンタールも自らの指揮していた艦隊と共に、総旗艦ブリュンヒルトに乗り込み、皇帝を補佐して全軍を統括することとなる。
 後衛を任されたミュラー提督も、本隊に少し遅れてフェザーンを発つはずである。
「プロージット!」
 そんな中、エルフリーデは、ボーデン邸でささやかな祝いの宴に参加していた。
 エルフリーデの策略が見事に成功し、ツェルプスト夫妻が、こちらの望む条件で円満離婚できたことと、ヒルダ達5人とリンザーの昇進祝い、また、亡きボーデン夫人の葬儀に参列するために、オーディンからアデナウアー家を代表して先行して到着したダニエラの歓迎会を兼ねた席だった。
「それにしても、伯爵夫人の計略は見事でしたわ。こう申し上げては失礼ですが、そのお歳で、末恐ろしい感じすらします」
 ベアトリスが、率直な言葉で賞賛する。
「私も、名脚本を演じることができて、役者冥利に尽きましたわ」
 隣に座るオティーリエも、深く感心している。
 エルフリーデは、実は今回の発案は、自分のオリジナルではなく、子供の頃に偶然聞いてしまった父と大叔父の会話がヒントになっていると打ち明けた。
「でも、ご自分の経験を元に計画を立て、それを実行し成功させるのも政治手腕というものですわ」
 ヘレーネが、微笑しながら更に賞賛する。
「ほんと、私が政治家だったら、絶対に伯爵夫人とヒルダだけは政敵にしたくないわね」
「あら、ひどいわ。それじゃ私がまるでソリヴィジョンドラマに出てくる黒幕みたいじゃない」
 アンナの言葉に、ヒルダが冗談混じりに抗議すると、一同が笑いの渦に包まれた。
 これから始まる同盟との一大決戦を前にしての、一時の平和だった。
「皆様仲がよろしくて羨ましいですわ。私もその場にいたら、ぜひ参加したかったわ」
 昨日フェザーンに着いたばかりのダニエラが、本心から羨ましそうに言った。
「申し訳ございません。私達の話ばかりで…」
 エルフリーデは、この腰の低い美しい元寵姫を一目で気に入っていたので、一人会話に入れない彼女を気遣った。
「いいえ、お話を聞いているだけで楽しいですわ。でも、その後、そのツェルプスト子爵という人はどうされるのですか? プロポーズしたい相手は実在しないのでしょう?」 
 ダニエラが、尤もな疑問を口にすると、エルフリーデは小さく頷いてこの事件のオチを語った。
 それによると、昨日、今度は叔父のゴットルプ子爵の方からツェルプスト子爵を呼び出し、マールバッハ伯爵令嬢は、オーディンで父親が急に結婚相手を決めてしまい、急遽戻ることになったと伝えた。愕然として言葉を失うツェルプストに、「お役に立てずに面目無い。こちらはお返し致します」と言って、先日のマネーカードを返して一件落着したのだと言う。
 ゴットルプ子爵によると、その時のツェルプストの顔を一目見せたかったとのことだった。
 一同から更に大きな笑いが起こる。
 和やかなうちに宴が終わると、明後日の葬儀での再会を約して、一人エルフリーデのみが、また裏口からリンザーに送られて背中合せに建つ邸へと戻っていった。
 邸に戻ると、ロイエンタールはまだ帰っていなかった。
 5日後に迫った出征に、最後の準備に余念がない段階であることは察しがついた。
 既に艦隊の大半は、フェザーン領宙域で隊列を整えて待機しており、旗艦クラスの艦が離陸するのを待っている。
 エルフリーデは、ふと思いついて、執事に出征前日の夜、現在フェザーンに残っている軍の最高幹部やロイエンタールの高級幕僚達を招いて、出陣の前祝いの晩餐会を開けないかと打診した。
 忠実な執事は、目を見開いて喜び、旦那様がお帰りになったら、早速相談して手配すると言ってくれた。彼は、まだ少女の年若い女主人が、精一杯帝国元帥の妻としての役割を果たそうとしていると理解したのだ。
 エルフリーデにとっては、晩餐にかこつけて、晴れて自由の身となったフレデリーケとミュラーを再度引き合わせる場を思いついたに過ぎない。
 ツェルプスト子爵は高官だが、公人としては一般には無名の人物であるので、貴族の社交界が実質消滅した現在の帝国では、離婚を公に発表する場もない。その為、フレデリーケが離婚し、元の姓に戻っていることを知る人間は、まだ限られている。無論、ミュラーも知らないことだろう。
 エルフリーデは、自室に入ってから侍女を呼ばずに一人で就寝の身支度を済ますと、室温を音声指示してから広い寝台に入った。
 全てが自動化され、便利な機械に囲まれたフェザーンの生活は、殆ど他人の手を必要としない。当初は戸惑ったエルフリーデも、ここに着いて一ヶ月でこの生活に慣れてみると、こちらの方が合理的で快適に感じるようになっていた。
 窓のシャッターが降り、広い寝台の中央より身体一つ分端に寄って横臥したエルフリーデは、この夜は日付が変わってもなかなか寝付けなかった。
 しんと静まりかえった広い部屋で、たった一人でいると、いい知れぬ不安感を覚える。
 ただでさえ広い寝台は、身体の大きな夫がいないと余計に広く、何時の間にか二人寝に慣れていた自分に気付くのだった。
 静寂の中で不安は焦燥に変わる。
 あの男もミュラー提督も、間もなく出征する。
 一旦戦闘に入れば、戦場では何が起こるかわからない。
 一度悪い想像が浮かんでしまうと、意に反して思考はとめどなく最悪の事態に突き進む。
『エヴァは、ずっと何年もこんな思いをしてきたのね…』
 既に進発しているミッターマイヤーの事を考えると、益々眠れなくなる。
 こんなことではいけないと頭では解っていた。
 軍人の妻として、帝国元帥の夫人として、毅然として夫を送り出さなければならないことも理解していた。
 だが、払っても払っても頭の中に去来する不快な思いを、16になったばかりのエルフリーデは、一人で抱えていることができなかった。
 堪らずに身を起こして、誰かを呼ぼうとしたその時、部屋の扉が静かに開き、見慣れた男の影が現れた。
 途端、全身が安堵感に包まれて、エルフリーデは数瞬の間、放心状態になった。
「幽霊でも見た顔をしてるぞ」
 からかうように冷笑して、バスルームに消えた夫を、エルフリーデは脱力しながら見送った。
 ロイエンタールは、15分程でバスルームから出てくると、無言で寝台の中へ入ってきた。
 エルフリーデは、反射的に夫に強くしがみついていた。
 この男の香り、この男の肌の感触、この男の温もり…
 今、全てを自分に刻み込んでおきたい。  
 それが、漠然とした不安を抱えているエルフリーデの切実な思いだった。
「お前…還らなかったら承知しないから。必ず…必ず無事に戻るのよ。私と、私達の息子の為に、お前は生きなければいけないのよ…!」
 ロイエンタールは、不思議な言葉聴いているような気がした。
「必ず、無事にお還り下さい」
 任官してからいったい何人の女が出征する彼に向かってその言葉を発したことだろう。
「わからんな。戦場では予測を超えたことも起こる。いくら俺でも敵にトマホークで首をはねられては生きておれんし、艦にミサイルが直撃すれば死ぬからな」
 女達に向かって、彼はいつもそんな言葉を冷笑と共に返すのだった。
 そして、無事に帰還を果たした後も、二度と同じ女と逢うことはなかった。
 だが、今渾身の力で彼を抱きしめる幼妻の言葉は、彼にとって同じ意味でありながら、全く違っていた。
「わかった。お前の願いを叶えてやろう」
 そう言うと、ロイエンタールは、彼女に数倍する力で抱き返したのだった。


 11月16日午後、親征に帯同する文官に与えられた出征前の特別休暇をヒルダはオヒギンス夫人となっているリンダーホーフ侯爵夫人ルトヴィカのサロンを訪れるのに充てた。
 エルフリーデと同じ時期に女児を出産予定だという彼女に、一昔前から帝国貴族の間で流行っていた老舗ブランドのベビーピンク色のバッグを祝いに持参したのだった。
 ルトヴィカは、嬉しそうにそれを受け取ると、暫く眺めた後、表情を引き締めて改めてヒルダに向き直った。
「ありがとう。でも、親征前でお忙しい皇帝主席秘書官のあなたが、わざわざこの時期に、自らお越し下さったのには、単にお祝いを届けにきただけではないのでしょう?」
 ヒルダは、予想以上のルトヴィカの勘の鋭さに満足して頷くと、怜悧な蒼碧色の瞳を向けて話を切り出した。
「お察しの通り、本日は、一つお願いがあって参りました。私の留守中、あなたがお持ちの情報網で、コールラウシュ伯爵夫人をお守り頂きたいのです」
「伯爵夫人を? ロイエンタール元帥の奥様を?」
「ええ」
 怪訝そうに問い返すルトヴィカに対して、ヒルダは先日来頭を離れないある疑念を打ち明けた。
 それは、先日解決した爆破テロ事件の実行犯の一人、リスナー管理官を聴取した時に、彼が話していたルビンスキー一派が次に企んでいるというものについてだった。
「すると、ルビンスキーが言っていたというその『叛逆を起こさせる軍の有力者』というのが、あなたはロイエンタール元帥のことだと思っていらっしゃるの?」
「ええ。何の根拠も確証もありませんし、こんなこと滅多に口にできないので、まだ信頼できる数名にしか話していません。第一、仮に本当にロイエンタール元帥に叛逆させるとして、どんな方法なのかも見当がつかないのです。あの方は、今回の親征でも常に陛下の傍らに在る主席幕僚でいらしゃるし、陛下の戦友ともいうべき国家の元勲です。でも、もし何か工作するとすれば、必ず伯爵夫人を利用するはずだと思うのです。私の杞憂に終わればそれに越したことはないのですが、もし、何か情報を掴んだら、すぐにここに知らせて欲しいのです」
 ヒルダはそういうと、4人組を代表してベアトリスの個人アドレスを知らせた。
 昨夜、ヒルダは迷った末、エルフリーデが帰った後、4人に対して、この件を話した。
 4人は一様に驚きの表情を見せ、ヒルダにそう考える根拠を訊ねたが、ヒルダとて確証があるわけではなかったので、具体的に何が起こるのかはわからないと正直に答えた。
 だが、妊娠中の伯爵夫人に何かあってからでは遅いので、彼女の周囲でもし何か妙な動きがあれば、自分の代理人として、すぐに行動を起こして欲しいと伝えた。その為に必要な法的に有効な委任状も4通作製し、4人それぞれに手渡した。その上で、ヒルダは、先日サロンを訪問した時に感じ取ったルトヴィカの周囲に漂う独特の空気を思い出し、彼女にも後援を頼みに来たのである。
「わかったわ。実を言うと、心当たりがないわけでもないの。こちらも確証がないので、今は詳しいことは話せないけど」
 ルトヴィカは、最近サロンに出入りするようになったリヒテンラーデ一族で級友でもあったアウグスチーネと、同じく親族のマリア・アンナのことを思い出していた。
「ありがとうございます。本来なら身重のあなたにこのようなお願いをするのは非常識だと判っているのですが、どうしても気になって…無理の無い範囲で結構ですので、ご助力下さい」
 ヒルダは、丁寧に礼を言いながらルトヴィカを気遣う。
「それは構わないわ。私自身のことは、オヒギンスが守ってくれるから、何があっても大丈夫よ。ところで、今回の親征とやらに、なぜ軍人でもないあなたまで同行しなければならないの?」
 ヒルダは、一瞬「え?」と言ってから、
「それは…私は陛下の主席秘書官ですから…」
 と、自信なさそうに答えるのが精一杯だった。
「そもそも帝大で政治学を学んで、建国の功臣でもあるあなたが、なぜ直接行政に携わらずに、秘書などというアシスタント的なポジションに甘んじているの? 新皇帝が、これまでの身分や年齢に関係なく適材適所で人事を断行するなら、国務尚書になっているのはお父上ではなく、あなたご自身ではなくて?」
「尚書だなんて…私にそんな野心は…」
 ヒルダは、何時に無く狼狽していた。
 元々女性の社会進出が極度に少ない帝国で、今の彼女の地位に女性が就いていること自体が異例だった。それ故、ヒルダ自身、今まで自分の待遇に不満や疑問を持ったことはなかったし、仕事にも充分満足していた。だからこそ、ルトヴィカの指摘は衝撃だった。自分では、自分のことを誰よりも先進的と思っていたのだが、無意識の内に、女性が男性と仕事の上で対等であるという認識を排除していたことに気づかされた。
「野心とかそういう問題じゃないわ。その功績に応じて相応しいポストに就くのに、男女間で格差が有りすぎることが問題なのよ。あなた自身はそれでも満足でも、後に続く女性達が、あなたを前例にされたら、男と同じ働きをしても、同じだけ報われないという不公正を味わうことになるのよ。あなたは、新帝国の建国に際して、軍の三元帥にも劣らない功績があったわ。ならば、その恩賞は、お父上ではなく、あなた自身が受けなければ意味がないのよ。でなければ、いつまで経っても帝国の女は男の所有物から脱却できないわ」
 ヒルダは、今度こそ言葉を失った。それは、彼女にとって大学時代の苦い経験以来の衝撃と言って過言ではなかった。
「ちょっと言い過ぎたわ。あなたはあなたのご苦労があるでしょうに。ごめんなさい。私は一度全てを失ったから、今ではすっかりフェザーン商人の妻なのよ。だからフェザーンの一市民としての思考パターンでしか考えられないの」
 ルトヴィカが、固まってしまっているヒルダに対して詫びた。
 しかし、ヒルダの美徳は、このような時でも、相手の意見を受け入れ、それを客観的に分析することができる度量がある点だった。
「いいえ、ルトヴィカ。あなたの言う通りだわ。私も、親征から戻ったら、そのことをよく考えてみます」
 ヒルダの脳裏に、自分と同年代で、生活の為に必死で勉強し、登用試験を受けて服務しているヘレーネ達の姿が過ぎった。彼女達の為にも、自分は主張すべきことを主張しなければならない。でなければ、ルトヴィカの言う通り、帝国の女性は何時まで経っても男と対等に生きていけない。それは、突き詰めていけば、皇帝が最も忌み嫌う女性の人間性を無視した後宮制度にも繋がるのだ。
「ありがとう、ヒルダ。私の暴言を聴き入れて下さって感謝するわ。暴言ついでにもう一つ言わせて頂ければ、いくら秘書だからと言って、あなたまでが親征に同行して、人殺しの手伝いをする必要性を私には感じられないの。いえ、私だけでなくて、多くのフェザーン人や帝国人の文官達も内心ではそう思っていてよ」
『人殺しの手伝い』という言葉が胸に突き刺さる。
「自由惑星同盟は、確かに民主主義を腐敗させたけれど、彼等は別に帝国領に侵攻して民衆を虐殺したり奴隷化したりするのを目的にしているわけじゃないでしょ? しかも軍事力を削がれた今となっては、やりたくてもそんなことはできないわ。だったら、わざわざ同盟領を制圧して、占領する意味がどこにあるのかしら? 無駄な戦闘で無駄に多くの命を失うだけじゃなくて? 彼等の政治が腐敗しているのが気に入らないからって、国を潰して併合しちゃうなんて、大きなお世話でしょう? 聡明なあなたが、なぜそんなバカらしい戦争ごっこに加担するのか、私には理解出来ないわ」
 ヒルダは絶句してしまった。
 そして、ルトヴィカの自分に対する『暴言』が確信犯であることに漸く気づいた。この女性は、自分に詫びる気持ちなど最初から持っていなかったのだ。
 だが、ここまで言われても、ヒルダはなぜか不快には感じなかった。
 自分でも心のどこかで感じていて、封じ込めていたことだったからかもしれない。
「まあ、理由は、『恋は盲目』ってことかしらね」
 とどめのような一言が、更に深くヒルダの胸を抉った。
「ヒルダ、あなたは、そんな男みたいな格好をしているけど、私なんかよりもずっと女らしい女だわ。逆にあの上から下まで女らしく着飾ったコールラウシュ伯爵夫人の方が、どんなに男に惚れても、頑固に自分を貫くタイプと見たわ。でも、私はあなたも伯爵夫人もどちらも好きよ。だから、あなたの申し出に喜んで協力するわ」
 そう言って微笑したルトヴィカに、ヒルダも徐々に日頃の冷静さを取り戻していった。
「無駄な人殺しをしない為に、私はこの親征に帯同するのです。その為に、たとえ陛下の御不興を買うことになっても、自分の信念を貫くつもりです。今日、あなたにお会いして、その覚悟ができました」
 ヒルダは、静かに立ち上がると、ルトヴィカに丁寧に礼をした。
 そして、この女性を生涯の友としようと心に決めた。
 自分に対して、ここまで歯に衣着せぬことを言える人間は、恐らくこれからもそう現れないだろうと思えた。
「あなたを信じているわ。ヒルダ。無事の御帰還をお祈りします」
 ルトヴィカは、立ち上がると、今度は真摯な眼差しで、固くヒルダの手を握り締めた。
 この日が、二人の永い友誼の始まりであった。

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エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(45)

はじめに

この長文記事は、「銀英伝をハーレクインロマンス化する」というコンセプトで書かれたブログ不定期連載小説です。原作準拠の世界観から、「リップシュタット戦役の最中に、高齢のリヒテンラーデ公がキルヒアイスよりに先に亡くなってしまった」というIFで始まり、そこから原作世界とは違う方向に話が進みます。主人公は、前述の事情で一部粛清や流刑を免れたリヒテンラーデ一族の一人、エルフリーデです。彼女が流刑になっている親族を救う為、ロイエンタールと政略結婚し、ハーレクインロマンスもどきのツンデレ恋愛劇を繰り広げるベタベタで甘々な夢小説です。所謂「ノーマルカップリング話」、「ロイエル小説」ってやつです。キルヒアイスを除く帝国&同盟の主要キャラの殆どが死なずに皆で幸せになる予定。作中唯一のハーレクイン男、ロイエンタール元帥のお子ちゃまぶりを愛でつつ適度にイジメてます。原作者のご意向に沿って、BL、801などはありません。1~2週間に一度ペースの更新頻度を目指し、今のところ60回程で終了予定です。
長くなってしまった為、ブログを辿るのが面倒だろうということで、読みやすいように、倉庫に収納しました。検索などではじめてここに辿り着き、「最初から読んでやろう」という奇特な方は、↑の「Log&Presents」をクリックしてこちらからどうぞ。ブログに掲載したものは、3、4回分ごとに、不定期に倉庫へ転載していく予定です。

 朝食後にツェルプスト子爵夫人が、突然腹痛を訴えて自室に篭ってしまった時には、事情を知らない使用人たちは右往左往し、元凶であるエルフリーデは、罪悪感で胸が潰れそうだった。
 だが、ここまできたからには計画を遂行するしかない。
 エルフリーデは、シュヴァイツァー夫人に目配せをすると、すぐに医者が往診に訪れた。
「他の皆様も同じものを召し上がったとなると、食中毒ではないと思いますが、何か感染症の可能性もあります。取り敢えず採血をし、水分補給の点滴を続けて、今日一日は、お部屋で安静になさるようお願い致します」
 中年の医師は、神妙な顔付きでそう告げた。
 実はこの内科医も、予め懇意にしているファーレンハイト軍医中佐に頼んで手配してもらったグルである。
 しかし、今日は大事な国家の式典で、フレデリーケは夫に同伴すると約束してしまっていた。帝国の慣習的には、文官の政府高官である既婚者が、このような場に夫人を伴わないのは、格好がつかない。まして、貴族なら尚更だった。
 フレデリーケは、医師に向かって何か言いかけたが、第一声を発する前に、付き添っていたシュヴァイツァー夫人が、被せかけるように口を開いた。
「かしこまりました、先生。仰せの通りに致します。奥様のお世話は、私が責任を持って到しますので、何かありましたら、すぐにまたご連絡差し上げます。ご足労ですが、よろしくお願い致しますわ」
 ベルタの意を受けた医師は、それを聞くと、処方箋を手渡してさっさと邸を後にした。
 医者の書いた処方箋は、ただのビタミン剤と、夕刻以降に頃合を見計らって飲ませる予定の下痢止めの薬である。
 シュバイツァー夫人は、すぐにその紙を新しい若い侍女に持たせて薬局に走らせた。
「さあさ、奥様、そういう次第ですので、残念ではございますが、本日はご出席をお見合わ下さい。ご主人様へのご連絡ならご心配には及びませんわ。今、ゴットルプ子爵様がお戻りになられたそうですから、子爵様からご主人様のホテルへヴィジホンを入れて頂きます」
 そう言われてしまっては、フレデリーケも「よろしくお願い致します」と言うしかない。
 案の定、ヴィジホンの前で、ツェルプスト子爵は、顔を引き攣らせていた。
 この大事な時に、何と役立たずの女だ、という怒りが全身から滲み出ている。
「そういう訳でございますので、奥様をお預かりしております当家といたしましては、子爵には、大変申し訳ございませんが、何卒ご寛恕あって…」
 そう言って、余裕の笑で丁寧に礼をしたゴットルプ子爵も、勿論、この計画の協力者の一人である。
「わ…わかりました…そういうことでしたら、仕方ありませんな。こちらこそ、妻がお世話をかけます」
 ツェルプスト子爵は、辛うじて理性を保って、礼を返した。
 これが、伝えてきたのが使用人なら、「今すぐ通話画面の前に妻を連れて来い」と怒鳴り付けたことだろう。しかし、同じ爵位を持つ貴族で、しかも、オーディンで一悶着あったロイエンタール元帥の身内にして、大本営の要職にもある男に対して、流石に今をときめくマリーンドルフ一族のツェルプスト子爵と言えども、それ以上強く出ることはできなかった。
 通話室を出たゴットルプ子爵は、成り行きを気にして部屋の前で待っていたエルフリーデに対して、右手の親指をぐっと挙げて微笑し、守備良くいったことを伝えた。
 エルフリーデは、珍しく普段反りの合わないと思っていた叔父に満面の笑顔を返すと、今日これからの役割についても、期待していると言った。
「ああ、まかせておきなさい。これでも、演技力には多少の自信があるのだよ」
 叔父が軽く胸を叩くと、執事が、オティーリエ・フォン・ボーデン嬢が裏口からこっそり訪れたことを告げに来た。
 いよいよ今日の主役のお出ましである。
 エルフリーデは、オティーリエを1階の化粧部屋に通すよう命じると、既にそこには、数名の美容師やスタイリスト、この日の為に特別に招いた有名メイクアップアーティストが、待ち構えていた。
「やはりドレスは、このオフホワイトの帝国風がよろしいですわね。お嬢様の清楚なイメージを引き立たせ、本日の場に相応しいかと存じます」
 スタイリストの女性が、いくつか候補に並べた中から、高級だがシンプルなデザインのドレスを指した。
 オティーリエは、それに対して、「お任せします」と応じると、早速、このドレスに合わせて彼女のメイクと髪型を簡単に相談し始めた。
 オティーリエは、エルフリーデの書いたシナリオに従って、今日から少しの間別人になる。
 役柄は、マリア・アントニア・フォン・マールバッハ伯爵令嬢。
 ロイエンタールの従兄である現マールバッハ伯の長女で、貴族女学院の高等科を卒業したばかりの18歳の娘ということになっている。勿論、実在しない人物である。名前は、エルフリーデが最近読んだ地球時代の歴史小説の主人公からとって名付けた。
 卒業記念に、間もなく新帝都となるフェザーンに旅行し、親族であるロイエンタール邸に滞在しているという設定だった。
 オティーリエは、社交界デビューする直前にリップシュタット戦役が起こり、帝国の貴族社会にもまだ顔が知られていなかった。それでも念を入れて、より確実に別人になりきる為に、ブルネットの髪を緑の黒髪に染め、黒い瞳にカラーコンタクトを入れて青くすることになった。
「オティーリエ様、よろしいかしら?」
 1時間程して、自室で支度を終えたエルフリーデがやって来た。
 この日の彼女の衣装は、ベージュ系の地味目なドレスに、アクセサリーも弔慰を現す一連のパールのネックレスに、同じくパールのイヤリングのみという、控え目なものだった。髪も何の飾りもなく、簡単に結い上げただけである。指にも、いつもの大粒のダイヤやサファイヤはなく、唯一左薬指に結婚指輪が輝いているのみであった。
 これは、エルフリーデに限ったことではなく、今日の式典の性質を考えての判断だった。
 今日の皇帝列席の式典は、大きく三部構成になっていた。
 第一部は、先日の爆破テロ事件の全容が明らかになったことを皇帝自らがあらためて発表し、事件解決や救助活動に功のあった者達の恩賞や昇進発表、第二部は、高等弁務官としてハイネセンに在ったレンネンカンプの死の一般へ向けての正式な公表と、同盟領への出兵宣言であり、こちらの方が主だった。第三部は、無礼講の立食形式の夕食会となるが、こちらもテロ事件の被害者遺族や市民感情に配慮して、舞踏会などは開かれず、皇帝主催のパーティとしては、旧王朝では考えられない程簡素なものだった。
 爆破事件では、主犯や実行犯が誰であれ、フェザーンの一般市民に多数の死者が出た事に変わりはなく、また、密葬で弔われたばかりの皇帝の代理人たる高等弁務官の死も、国家として服喪しなければいけない重大事だった。
 その為、公職にある者は、武官文官全て喪章を付けて出席することが義務付けられた。彼等の同伴者に対しては、特に制限はなかったが、ただでさえ質素なローエングラム王朝の気風に配慮しても、一般常識に照らしても、この日は控え目な格好が望ましいことは明白だった。
 腹痛で欠席するフレデリーケも、この日の為に、裾から上半身にかけて、グレーから白のグラデーションになっているモノトーンの細身のドレスに、同じく弔慰を現すブラックパールのネックレスとピアスのセットを用意していた。
 部屋に入って来たエルフリーデを見るなり、化粧部屋に居た者達は、一斉に息を呑んだ。
 飾り気のない格好が、かえって彼女の素の美しさと、豊かなクリーム色の髪と大気圏再上層の青の瞳の輝きを際立たせていた。
「まあ…」
 感嘆の声を上げるオティーリエの目の前で、しかし、彼女以上にエルフリーデは、目の前の友人の姿に驚いて目を見開いていた。
「あ、ごめんなさい。ちょっと、こっちのコンタクトの調子が悪いみたいで…すぐ付け直すわ」
 オティーリエは、ドレッサーに座ったままそう言うと、一旦外した左目のコンタクトを再び装填しようとした。
「そ…そのままでいいわ。その方が、本当にあの男の親戚みたいでいいわ」
 エルフリーデが、そう言って制すると、オティーリエは、あらためて鏡に映る左右異なる色の目をした自分の姿を見詰めた。
 右目が青く、左目が黒い、丁度ロイエンタールと逆の金銀妖瞳の美少女が映っている。
「まあ、なんて神秘的で、印象深いんでしょう。確かに、この方が伯爵夫人の仰る通り、殿方に対してインパクトが強いですわね」
 事情を知らされておらず、オティーリエのことを、将来の新帝都に花婿候補を探しにやってきた本物の伯爵令嬢と信じている美容師がそう言うと、他の者達も互いに頷き合いながら同意した。
 オーディンと違い、ここフェザーンでは、カラーコンタクトで瞳の色を変えるのは、ファッションの一部であり、後で素の色と異なることが判っても、笑い話で済む世界だった。
 更に、多くの芸能人に指名を受けるというメイクアップアーティストの腕前と、フェザーンの先進技術もあってか、オティーリエの顔は、素顔とは別人のような印象に出来上がっている。
「元々お顔立ちがよろしいから、大して苦労はしませんでしたわ」
 と、自慢げに笑うメイク係に、エルフリーデは満足して、全員に約束の報酬を上乗せして支払うよう後に控える侍女のミミに命じた。
「こいつは、また、大層なことだな」
 玄関ホールで、支度を終えたオティーリエを紹介されたロイエンタールは、自分と逆の金銀妖瞳の少女に、皮肉を込めた目付きで冷笑を返した。
 彼にこういう態度に出られると、大抵の女は萎縮してしまう。いや、女だけではない、男の部下や使用人とて身をすくませる。
 だが、この日のオティーリエは、不快そうに自分を一瞥した帝国元帥に全く臆することなく、優雅に微笑みながら右手を差し出した。
「よろしくお願いしますわ。オスカー叔父様」
 一旦衣装を身に付け、メイクを施されると、たちまち役に入っていけるのは、流石に女優の卵だけのことはある。
 ロイエンタールも、小娘にこう出られては、大人の対応をせざるを得ない。
「こちらこそ、よろしく頼む。フロイラインには、伯爵夫人の酔狂に付き合わせてすまない」
 手を取って、軽く口づける真似をすると、オティーリエの胸が一瞬高鳴った。
 彼女は、同じ劇団に所属する若手俳優に1年以上も密かな思いを寄せており、ずっと年上の帝国元帥には興味はないはずだった。
 だが、今、その男を間近にして、心とは無関係に心拍数が上昇しているのだ。
『これが、帝国軍一の漁色家のフェロモンってやつなのかしら? アブナイ、アブナイ…』
 オティーリエは、せっかく入りかけていた役柄から、危うく戻りそうな自分の女優根性に、胸の内で密かに且を入れた。
 隣で一部始終を見ていたエルフリーデは、誰にも気づかれぬよう、またかという溜息を漏らした。とにかく、この男は、女を惹き寄せる魔力のようなものを持っていて、世の殆どの女性は、彼を目の前にすると、誘蛾灯に引き寄せられる虫状態になってしまうのだ。 エルフリーデ達が対面を済ませると、ゴットルプ子爵夫妻も現れ、5人は一台のランドカーに乗り込んで式典の行われるフェザーンドームシティのメインホールに向けて出発した。
 エルフリーデは、正面入口にランドカーが付けられると、真っ先に赤絨毯の上に静かに降り立った。
 いつものようにマスコミのカメラが待ち構えていたが、次にランドカーから降りた少女の姿に、周囲からどよめきが起こった。
 突然現れた金銀妖瞳の美少女に、誰もが咄嗟にロイエンタール元帥の親族を連想したが、この日もマスコミは個別取材を制限されており、赤絨毯から5メートル程離れた距離に、シールドが張られ、警護の近衛兵が並んでいた為、これ以上の詮索は誰にも出来なかった。
 マールバッハ伯爵令嬢に化けたオティーリエに続いて、こちらも控え目なモスグリーンのドレスを着たゴットルプ子爵夫人が降り、最後に子爵とロイエンタールが向かい合せの座席からほぼ同時に降り立つと、5人は揃って会場へと入っていった。
 1500時きっかりに皇帝一行が会場に姿を現すと、広いホールの最奥に、文武の高官とその夫人達が若い皇帝の玉座を囲んで整列し、他の軍人や官僚、財界人等とその同伴者達、民間からの招待者達は、それに向かい合う形で式典が進められていった。
 宮内省次官の要職にあるツェルプスト子爵と、大本営の事務方の高官である叔父のゴットルプ子爵は、丁度並んで最前列に立ち、向かって皇帝の右脇に立つオーベルシュタイン軍務尚書と、その隣に立つロイエンタールにピタリと付いていたエルフリーデの目の前にいた。
 案の定、フレデリーケが急病で同伴できなくなった子爵は、れいの妾の女を連れていた。
 女は、新政府高官の同伴者として、国家式典に出られるのが誇らしくてたまらないらしく、ここぞとばかりに着飾っていた。子爵にねだって買ってもらったらしい大粒のエメラルドの首飾りと対のイヤリングが、節操の無さを物語るようで、エルフリーデは不快だった。唯一の救いは、ドレスの色が淡いクリーム色であることくらいで、これが真っ赤なドレスにルビーだったら、もっと周囲の顰蹙を買ったことだろう。隣で子爵自身も渋い表情である。
 エルフリーデは、子爵と妾に嫌悪感を抱きつつも、事が予定通りに運んでいることに満足していた。
 第一部である爆破事件に対しての論功行賞が終わると、皇帝自ら今月中に、同盟領へ向けて親征することと、密葬で弔われたレンネンカンプ高等弁務官の死亡の経緯を公式発表した。
 更に11月10日には、早くも黒色槍騎兵艦隊が先発隊としてフェザーンを発ち、継いでミッターマイヤー元帥率いる宇宙艦隊の高速艦隊を先陣に、皇帝の本体も今月下旬には順次フェザーンを発つ予定である。
 この発表に軍服組は、一斉に士気を高め、拳を上げて「ジーク・カイザー」を叫び始めた。
 一方、私服の文官や、フェザーンの財界人達の反応は冷ややかだった。
「銀河帝国正統政府」という名の亡命政権を受け入れ、民衆を弾圧したゴールデンバウム王朝の復活を支援する形になったトリューニヒト政権は崩壊し、残っているのは、元々何らかの事情で前王朝の帝国を追われた人々とその子孫達の住む国家である。
 奴等が民主主義を腐敗させようが、民衆が堕落しようが、バーラトの和約により既に軍事力の大半を削がれている者達を、わざわざ莫大な戦費を費やしてまで征服し、全体主義の統一国家にする必然性が果たしてあるのか? という口に出せない素朴な疑問を抱えている者は少なくない。
 帝国支配を断固拒絶する同盟の残存軍事勢力と戦闘に入れば、少なからぬ戦死者が出ることは間違いない。
「まあ、そんなに戦争がやりたけりゃ勝手にやってればいいさ。軍が弱体化すれば、その分、我々の発言力が強くなるというものだ」
 これが、この当時の帝国の文官とフェザーン財界人達の一部の共通認識だった。
 特に、これまで自治領だったフェザーン人にとっては、戦争は所詮対岸の火事だった。身内に出征兵士のいない彼等にしてみれば、当然のことだろう。
 本来なら、ここで気骨のある閣僚の一人や二人が、死を賭して皇帝に換言し、異なる政体の国家との並存、協栄の道を説いても良さそうなものであったが、それを行うには、ローエングラム王朝は、皇帝自身が軍の最高司令官だけに、あまりにも軍部の力が巨大過ぎた。
 天才シルヴァーベルヒ工部尚書も、無論その理屈は理解していたが、既に次代の主役は、自分達のようなテクノクラートであると見ている彼には、出兵による軍の弱体化はむしろ望むところであった。


 大人達の大きな思惑の中で、エルフリーデの小さな企みは、着々と進行していった。
「ツェルプスト子爵、先程はどうも」
 立食パーティに移行して暫くした20時を少し回った頃、夫人と変装したオティーリエを連れたゴットルプ子爵は、さりげなくツェルプスト子爵に声をかけた。
 ゴットルプ子爵は、ツェルプストと妾の女に向かって、妻とマールバッハ伯爵令嬢ということになっているオティーリエを紹介した。
「やはりロイエンタール元帥のお身内の方でしたか」
 勝手に納得して礼を返す子爵に、オティーリエは静かに進み出る。
「はじめまして。マリア・アントニア・フォン・マールバッハでございます」
 オティーリエは、青年子爵の前につと進み出ると、名門貴族の娘独特の優雅な所作で、ドレスを摘んで宮廷式のお辞儀をした。そして、ゆっくりと顔を上げると、ほんの少し頬を紅潮させ、恥ずかしそうに目を伏せて見せた。なかなかの名演技である。
 その仕草と清楚な美しさに、目の前のツェルプストは、一瞬胸が高鳴った。彼にとって、こんな新鮮な刺激は、仲人にフレデリーケと初めて引き合わされた時以来である。
 隣の妾が、素早くその気配を察して、子爵と組んでいた腕に力を込めたが、ツェルプストは、無意識のうちに、その腕を邪険に振り払った。
 彼は、目の前の深窓の令嬢に、瞬時に心を奪われてしまっていた。
「フロイライン・マールバッハ」
 ツェルプストが、マールバッハ伯爵令嬢と思い込んでいるオティーリエに、ふいに呼び掛ける声がした。
 全員が声の主を振り返ると、皇帝主席秘書官が、凛とした姿で立っていた。
 この日のヒルダは、先日の式典とは打って変わり、男性官吏達と同じ文官の礼服に身を包んで男装していた。
 彼女は、今回の爆破テロ事件解決の功績が認められ、軍部に於いてこれまでの准将待遇から一階級昇進して、少将待遇となっていた。そして、このタイミングでマールバッハ伯爵令嬢に声をかけ、彼女を一旦この場から引き離すのも、シナリオに沿ったヒルダの役割だった。
「ヒルダお姉様」
 オティーリエは、両子爵達に向かって短く一礼すると、嬉々としてヒルダに駆け寄った。
 ヒルダは、ゴットルプ子爵夫妻には軽く目礼したが、ツェルプストは無視し、更に妾の女に対しては、あからさまに侮蔑の視線を送ってオティーリエと共にその場を離れた。
 チラリと横目で振り返ると、蒼白なツェルプスト子爵と妾の狼狽した姿が僅かに目に入った。
 ヒルダは、ツェルプスト子爵はともかくとして、芝居とはいえ、側室の少女が少し可哀想に思えてしまった。彼女とて、初めから好んで妾奉公に出たわけではあるまい。偶々正妻より先に子供を産んだことで新体制下で主流派と目される家の継嗣の母となり、思わぬ幸運に、若い彼女が自分を見失ってしまったとしても、致し方ないのではないか。エルフリーデよりも若干長く生きていて、多少は世間を知っているヒルダにはそう思えた。
「フロイライン、よろしかったら、ご一緒に、あちらで何か召し上がりませんか?」
 主人と今をときめく皇帝主席秘書官の冷たい態度に途方に暮れてしまった妾を、今度はゴットルプ子爵夫人が、さり気無く誘う。これも、シナリオ通りの台詞だった。
 いたたまれずに立ち尽くしていた少女は、子爵夫人の言葉に救われたように素直に従って二人の男達の傍を離れた。
「ふー、やれやれ、まったくもって、お互い気の休まる時がありませんな」
 ゴットルプ子爵エドアルドは、そう言いながら、同じ一門(ということになっている)で同年代の同じ子爵号を持つ男に対して、同意を求めるように少し大げさに嘆息して見せた。
 これから彼のささやかな一人舞台が始まる。
 ゴットルプ子爵は、丁度前を通りかかったウエイターを呼び止めると、白ワインのグラスを二つ取り、一つをツェルプスト子爵に手渡した。
 二人の青年子爵は、軽くグラスを掲げて乾杯すると、ツェルプストは、やけくそのように一気に呷った。
「何を仰るのやら。あなたは、マリーンドルフ一族として、大本営で皇帝陛下の覚えも目出度く、しかも姪御は、国家の元勲であるロイエンタール元帥に嫁いでいらっしゃる。それに引き替え、私はすっかり未来の皇后陛下にまで御不興を買ってしまったようです。最近じゃ、踏んだり蹴ったりですよ」
 自嘲とも不満ともつかない言い草で、ツェルプストは吐き捨てるように言った。
 オーディンでロイエンタール元帥夫妻と気まずくなってからというもの、どうも周囲の風向きが違ってきたように感じられる。
 それもこれも、全て躾のなっていない側室と、石女の正妻のせいだ。
 自分の増長を棚に上げて、ツェルプストは、その原因を女達に押し付けた。
「まあまあ、お嘆きなさるな。フロイライン・マリーンドルフはともかく、ロイエンタール元帥夫妻によく思われていない点は私も同じですよ。気位の高い姪は元々出自の卑しい母を持つ私を嫌っていますし、戦場で武勲を重ねて今の地位を築いた元帥にしてみれば、私のような男が大きな顔で大本営にいるのは面白くないでしょう」
 ゴットプル子爵エドアルドは、彼特有の処世術で、虚実を上手く取り合わせた言い方をし、巧みにツェルプストの懐に入り込んだ。案の定、ツェルプストは、目の前の男に対して途端に同情の篭った目を向けた。
 ゴットルプ子爵が、身分の低い母を持つ庶子であることは、当時の貴族社会では周知のことであったし、また、ロイエンタールのような軍人が、功なくして高官の地位にいる彼のような男を快く思わないだろうということも、容易に想像がついた。
 実際には、ロイエンタールは、あまり実権のない名誉職的な地位に、ローエングラム政権に従順な貴族が座っているくらいのことは、気に留めていなかったし、個人的にもエドアルドを嫌ってはいなかったが、ここは相手の先入観を大いに利用することにした。
「成程。貴殿のお立場は、察するに余りあります。しかも、今は、一時的とはいえ、そのロイエンタール元帥の官舎にご一家で一緒にお暮らしとは。確かに気の休まらないのも道理でしょうな。私などは、ホテル暮らしになりましたから、不自由とはいえ、その点では気楽なものです。工部省も気の効かない振り分け方をしたもんだ…」
 すっかり相手の話を信じ込んだツェルプストは、心底同情した口調で呟く。
 ゴットルプ子爵は、その勢いに乗って更に話を核心に近づけた。
「そうでしょう? しかも、私が文句を言えた義理じゃありませんが、あのご令嬢が来てからというもの、邸中がピリピリしてて、退庁時間が迫ると帰宅拒否症を起こしそうなんですよ。だから休日は、何かと理由を付けて妻と子供達を連れて、できるだけ外出するようにしているんです。まあ、お宅の奥様がいらっしゃるお陰で、姪も辛うじて激発しなくて済んでいますがね。その点ではこちらは感謝しております」
「あのご令嬢とは、先程のマールバッハ伯爵令嬢のことですか? 彼女が何か?」
 だが、情けなさそうに愚痴をこぼすゴットルプ子爵の言葉を、ツェルプストは、即座には理解できなかったようで、怪訝な顔で疑問を口にした。
 ゴットルプ子爵は、網に引っかかりつつある獲物に、内心でほくそ笑みながら、更に演技を続ける。
「いや、彼女自身が何か問題を起こすわけではありません。至って大人しい、いい娘さんですよ。ただ、見ての通り、あの器量でしょう? ただでさえ妊娠して気が立っている姪は、帝国軍一の漁色家と言われた夫の気が移らないかと、毎日気が気ではないのですよ」
 そう言って、ゴットルプ子爵は、十数メートル斜め前方で、来賓達の挨拶を受けているロイエンタール元帥夫妻を顎でしゃくって見せた。
 その視線の先には、常よりも夫に密着して、しっかりと腕を掴んでいるエルフリーデの姿があった。
「なるほど…」
 ツェルプストは、納得して頷いた。
『これは、お芝居なのよ。皆がそうした方がいいって言うから、仕方なくやっているのよ』
 周囲の視線を感じつつ、夫に組んだ腕に力を込めながら、エルフリーデは、自分自身にそう言い訳していた。
 突然現れた親族の美しい女性に、常に女性の心を惹いて止まない夫を奪われやしないかと神経を張り詰めている妊娠中の妻。
 不本意だが、それが今日のエルフリーデの役どころだった。
 当初、この演出はシナリオになかったものだったが、先日の会食の折に、オティーリエとヒルダの仲間の女性士官達に計画を話して協力を請うた時に、アンナ・ケンペル准尉の発案で生まれたものだった。
 プライドの高いエルフリーデは、当初やんわりと拒絶したが、ヒルダや他の女性達ばかりか、主役のオティーリエ自身からも、絶対にその演出を入れるべきだと言われて、仕方なく受け入れたのだった。
 だが、エルフリーデには、何よりもこんな些細なことにさえ意地を張ってしまう自分が嫌だった。
 隣の夫は、常と同じ端然と構え、彼を敬愛する部下の軍人達や、追従する文官や財界人の挨拶をやり過ごしている。
 その後方では、ゴットルプ子爵が、最後の詰めに入っていた。
「私よりも、毎日何かにつけ伯爵夫人に辛く当たられているご令嬢が気の毒でね。ご令嬢自身は、ロイエンタール元帥に興味はなさそうだし、元帥の方も単なる親戚の娘くらいにしか思っていない様子なのですが、やはりああいう男と結婚すると、妻としては疑心暗鬼になってしまうのでしょう」
「そうですか…可哀想に。しかし、この時期に門閥貴族のご令嬢がフェザーンにいらっしゃるということは、こちらで良い縁談でもお世話する方がいらっしゃるのではないですか?」
 すっかり話を信じ込んだツェルプストは、オーディンで自分の妾を一喝した気の強い伯爵夫人を思い出しながら、心底マールバッハ伯爵令嬢に同情した声を発した。
 目の前のゴットルプ子爵の方は、こうもシナリオ通りの反応を示してくれる相手に対し、内心で笑いが止まらなかった。
 遂に向こうから罠に飛び込んで来てくれたのだ。
「それなんですよ。ツェルプスト子爵」
 ゴットルプは、事が思い通りに進んでいる高揚感を抑えつつ、懸命に神妙な表情を作ってみせた。
「彼女はマールバッハ家自慢の一人娘ですからね。今のご当主のご令嬢の父上は、ロイエンタール元帥の従兄に当たる方なんですが…ご存知かと思いますが、あの家は、何代か前に既に没落しています。聞くところによると、元帥の母上も、莫大な借財を肩代わりするのを交換条件に、下級貴族で財を成した元帥の父上に嫁がれたとのことです。その甲斐あってか、この数十年はかなり持ち直してきているらしいですが、リップシュタット戦役以前から、門閥貴族としてはあまり裕福な方とは言えなかったらしくて、とても昔の栄華をには程遠い状態だったらしいのです。あなたもご承知の通り、元帥だけでなく、皇帝陛下はじめ、軍の最高幹部の方々は、新政権になっても、決して身内を取り立てたりしませんからね。こう申しては何ですが、あなたや私が今の地位にいるのは、女性で若年者のフロイライン・マリーンドルフを尚書に抜擢できない代替人事のようなものです。ミッターマイヤー元帥の父上でさえ、未だ市井の造園業者のままですしね」
 ゴットルプ子爵は、少し声のトーンを落とすと、さり気無く皮肉を浴びせてやった。
「うむ…確かに」
 ツェルプスト子爵も、流石にそう言われては同意せざるを得ない。
 最近つい忘れがちだが、旧体制が続いていたら、自分がこの若さで今の地位に就いていることは、まず有り得ないだろう。それくらいのことは、彼にも理解できた。
 一呼吸置いて、ゴットルプ子爵の長台詞は続く。
「そこで、マールバッハ家としては、美貌の娘を何とか権門に嫁がせて、往年の隆盛を取り戻したいところだったらしいんですね。折良くブラウンシュバイク公一門の侯爵家と内々で縁談が纏まりかけていたそうなのですよ。まあ、相手は30も年上の中年男で後妻だったらしいのですが、正妻だし、没落した家の娘にとっては願ってもない縁だったのでしょう。尤も、話が出た時は、彼女はまだ14、5歳で、相手も世間体をはばかって正式な婚約は数年後という話になっていたそうなんです。ところが、ご存知の通り、それもリップシュタット戦役で見事に当てが外れたというわけです。相手の侯爵は、ガイエスブルクで自殺してしまったらしいですから」
 話を聞いていたツェルプストの顔が、俄に高揚するのが見て取れた。
 そんなジジイでよかったなら俺が…と喉まで出かかっている声を必死で押さえ込んでいるのが、よく判る。
 ゴットルプ子爵は、吹き出したいのを堪えながら、更に台詞を続けた。
「そこで、マールバッハ家としては、今度は新政権下での勝ち組に、娘を嫁がせようと考えたわけです。だからわざわざこちらの社交界で目に留まるよう送り込んで来たわけですよ。ところが、ロイエンタール元帥ご自身は、母方の親族には昔からえらく冷淡でしてね。邸に滞在するのは認めたものの、それ以外のことには全く感知しません。仕方なく、私や執事が相手探しに奔走しているんですが、これがなかなか条件に合う人物がいないのですよ。姪は姪で早く彼女を嫁がせて追い出したいらしくて、毎日せっつくし、オーディンのマールバッハ家は頻繁にFTLで無理な条件を出してくるし、もう、いい加減疲れています」
「それで、マールバッハ家としては、やはり軍首脳の誰かにというお考えで?」
「そうだったらまだマシです。新王朝には、独身の将官など余ってますからね。今のマールバッハ伯は、ロイエンタール元帥の母上を下級貴族に嫁がせた先々代よりも余裕がある分、気位が高くてね、いつ戦死するかわからない軍人はダメ、しかも、このご時世でまだ爵位のある貴族で、財産があって、それなりの官職に就いている人物とか言っているのですから…」
 ツェルプストは、ごくりと唾を飲み込んだ。
 それならば、この自分こそが、ぴったりの相手ではないか。
 リップシュタットで、大方の門閥貴族が滅びた今となっては、財産や地位が安堵されている爵位持ちの貴族は限られている。あの美しく血筋もいい令嬢の相手に相応しいのは、自分しかいないではないか。しかも、親戚付き合いが希薄とはいえ、建国の功臣であるロイエンタール元帥の親族である。自分がもし独身なら、全ての条件を兼ね備えている。いや、今からでも独身になることはできる。幸い正妻のフレデリーケには子がいない。妾が産んだ長男は、庶子扱いにすれば構わないだろう。権門の貴族や皇族の男には、結婚前に庶子がいることは、昔から珍しくはない。元々、30も年上の男の後妻にしようとしていたなら、マールバッハ伯とやらも、自分に不足はないはずだ。
 ツェルプストは、瞬時にそんな妄想を抱いた。というよりも、そう考えるよう見事に思考誘導されていたのだ。
「本当に、ツェルプスト子爵のような方が、もし独身ならと、思わずにいられません」
 ゴットルプ子爵は、最後の一押しをした。
 しかし、ここで即座に飛び付く程、流石のツェルプストも甘くはなかった。
「ははは…ご冗談を。仮に私が独身だったとしても、ロイエンタール元帥も伯爵夫人も承知しますまい。なんせ私は、オーディンでお二人のご不興を買ってしまいましたからな」
「そのことでしたら、それ程問題ではありません。先程も申し上げたように、元帥は最初からこの手の話には興味がないし、姪の伯爵夫人は、とにかく早く令嬢を誰か条件の合った男に嫁がせて追い出したいのですからね。私にしても、正直なところ、早くマールバッハ家の条件に叶った適当な相手に片付けて、御役御免にしてもらいたいのが本音です。でも、まあ、いくら何でもツェルプスト子爵は諦めなければならんでしょうな。ご正室にも勝るご寵愛のご側室がいらして、その方との間のお子様を継嗣とされているわけですから」
 ゴットルプ子爵は、乾いた笑いを残しながら、名残惜しげなツェルプストに一礼すると、その場を退散した。
 今宵の彼の役目は、ここまでである。これ以上踏込むと返って不自然になるので、後は別の役者にバトンタッチする為に舞台を下りたのだ。
 ゴットルプ子爵エドアルドは、その足でロイエンタール元帥夫妻に近づくと、エルフリーデに、首尾良く事が運んだことを伝える為に、軽く目配せをした。
 これで、この後、ツェルプスト子爵は、フレデリーケとの離婚に向けて本格的に動き出すことだろう。
 後は、フレデリーケ本人と相手のミュラー提督の問題である。
 エルフリーデは、叔父に対して小さく頷くと、周囲を見渡してミュラーの姿を探し求めた。
 ミュラー上級大将は、皇帝の御座所近くで、幕僚達に囲まれて話し込んでいた。
 今度の出征では、皇帝の本隊の後方の固める重要な位置で出陣するはずだと聞いている。
 敵との戦力差からも、彼の階級から考えても、万が一にも戦死するようなことはないだろうが、一旦戦場に出ればどんな不測の事態が起こるかわからない。
 フレデリーケとミュラーとの仲が進展するにしても、この親征から帰還した後のことになるだろう。その為には、まずはミュラー提督に無事にご帰還頂かなくてはならない。
 幕僚達と談笑している砂色の髪の穏やかな青年を、エルフリーデは、少し離れた場所からじっと見詰めていた。

コメント一覧

ゆうやん (10/21 12:33) 編集・削除

更新お疲れ様でした。
タイでの洪水のニュースはこちらでも毎日報道されているのでひょっとしてどこかに避難とかされてるのかな?と思ってました。お家のほうは大丈夫でしょうか?

いよいよ計画の全貌が明らかにww

>思わぬ幸運に、若い彼女が自分を見失ってしまったとしても、致し方ないのではないか
今まで頭悪い印象ばかりだった彼女ですが、確かに好きで始まったご奉公ではないですし、エルフィーの芝居でなく実際にこの手の事態に遭遇すれば、子供は取り上げられて親と路頭に迷うか、親子ともに路頭に迷う、というパターンもありえるわけで。ちょっと考えました。
あ、ベルばらのロザリーの旦那さんがこんな生い立ちだったような・・・脱線w

そして舞台はほぼ整った舞台でミュラーとフレデリーケがどう踊ってくれるのか、そこは本人しだいなわけですね!!

>天才シルヴァーベルヒ工部尚書も、無論その理屈は理解していたが、既に次代の主役は、自分達のようなテクノクラートであると見ている彼には、出兵による軍の弱体化はむしろ望むところであった。
あ~。私なんだかんだ言って彼好きです。自分とこではお亡くなりにしてしまいましたが、こちらではハーレクイン、本編どう活躍するかとっても楽しみです。
出征に関する文官と軍部の温度差、会場にもぐりこんで聞き耳たててみたくなったりしました。

続きも楽しみにしてますね

非公開 (10/22 21:10) 編集・削除

管理者にのみ公開されます。

Jeri (10/23 00:13) 編集・削除

>ゆうやんさん
ご心配頂いていたのに、お返事できなくてすみませんでした。
実は、洪水がニュースになった直後に、いずれ近いうちにこちらでまた生活用品の品不足になるだろうことを想定し、今月上旬にバンコクを脱出しておりました。
うちのコンドは高層階なので、洪水自体は心配ないのですが、停電になった時、階段で20階昇るのは、体力が…(メディカルスパより確実にダイエットできるという意見もありましたが、却下w)
というわけで、現在は、また別の国に来ています。
その件については、またネタになりそうなので、あらためて記事にします。
ただ、そこの家が長い間放置状態だったので、インターネットに接続できなかったんですよ。
今日やっと業者がセッティングしてくれて、高速接続ができるようになりました。
それまでは、ネットカフェでやっていたので、なかなか更新やメールの返信ができす申し訳ありませんでした。
ハーレクインは、ずっと更新できなかったので、今回連投してみました。
ベルヒ死なないバージョンは、絶対書いてみたかったので、ここで欲求を爆発させます。
そちらへも毎日お邪魔してますので、今後ともよろしくお願いします。

>非公開コメ様
>ひょっとして元ネタの歴史小説には架空の男装の軍人が出てたのでわ。
そうそう、そうなのですよ。
ついでに主人公の王妃様は道ならぬ恋に落ちて、その男装の軍人には、ずっと思いを寄せられていた幼馴染が至してw
丁度この手のお話しに感化されやすいお年頃のエルフィーは、すっかりハマってしまったという裏設定ですw

>白だっこちゃん人形
その表現力に敬礼!
ついでに言うと、平静を装っていて、実は嬉しくてたまらないロイロイだったりします。

あ、前のコメ、ご希望に従いこちらで削除しました。

エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(44)

はじめに

この長文記事は、「銀英伝をハーレクインロマンス化する」というコンセプトで書かれたブログ不定期連載小説です。原作準拠の世界観から、「リップシュタット戦役の最中に、高齢のリヒテンラーデ公がキルヒアイスよりに先に亡くなってしまった」というIFで始まり、そこから原作世界とは違う方向に話が進みます。主人公は、前述の事情で一部粛清や流刑を免れたリヒテンラーデ一族の一人、エルフリーデです。彼女が流刑になっている親族を救う為、ロイエンタールと政略結婚し、ハーレクインロマンスもどきのツンデレ恋愛劇を繰り広げるベタベタで甘々な夢小説です。所謂「ノーマルカップリング話」、「ロイエル小説」ってやつです。キルヒアイスを除く帝国&同盟の主要キャラの殆どが死なずに皆で幸せになる予定。作中唯一のハーレクイン男、ロイエンタール元帥のお子ちゃまぶりを愛でつつ適度にイジメてます。原作者のご意向に沿って、BL、801などはありません。1~2週間に一度ペースの更新頻度を目指し、今のところ60回程で終了予定です。
長くなってしまった為、ブログを辿るのが面倒だろうということで、読みやすいように、倉庫に収納しました。検索などではじめてここに辿り着き、「最初から読んでやろう」という奇特な方は、↑の「Log&Presents」をクリックしてこちらからどうぞ。ブログに掲載したものは、3、4回分ごとに、不定期に倉庫へ転載していく予定です。

 11月3日の夜、ボーデン邸に暮らすヒルダ達の元へ、隣家のロイエンタール邸から、事件の解決を祝う飲み頃のロゼワインが20本程届けられた。
 ロゼとしてはこの時点で最高級のものだと言われていたが、大量貯蔵していた理由は、懐妊中の伯爵夫人の胎児の性別が判明した時の祝いに、男児の場合は、辛口の白を、女児の場合は甘口のロゼを用意していたのだと、届けに来た執事がこっそり教えてくれた。
「余りものを差し上げるようで恐縮ですが…」
 と、律儀言う執事に向かって、ヒルダ達は、突然の高価なプレゼントを全員満面の笑で歓迎した。
 その伯爵夫人とは、翌日の午後、再び裁判所で落ち合うこととなっている。今回は、業務の都合上、対策室からは、ヒルダとヘレーネのみが正午に抜け、裁判が終わり次第また戻ることになっている。
 今度の被告は、先日とは違い、サビーネを直接襲ったことを認めている男の一人だった。
 既に第一回の公判は終えており、罪状認否に於いて、館の襲撃(器物損壊)と集団的暴行(サービネの他に同僚達と共に館の侍女2名を襲い執事1名の殺害に関与したことを自供)、未成年者姦淫致傷の起訴事実を全て認めていた。
 弁護側は、特殊な状況下での判断能力の不足と上司からの心理的圧力による心神耗弱状態にあったことを理由に減刑を主張している。
 それに対して検察側は、「善悪の判断が不可能な程の精神状態にあったとは言えない」として、死刑を求刑していた。
 判決は、前例から、この間をとって禁固何年かになる可能性が高いと予想されたが、ヘレーネは勿論の事、ヒルダもエルフリーデも納得していなかった。
 サビーネをあんな無残な姿で死なせた男が、なぜ即座に極刑にならないのか? 最初に裁判の経緯を聞かされた時は、対策室の全員が怒りに震えた。
 今日の第2回公判は、弁護側、検察側それぞれの証人が証言台に立ち、関係者の立場から被告を弁護又は糾弾し、裁判官と陪審員にそれぞれの思いを訴える。
 そこで、双方の言い分を聴いた陪審員と裁判官が、次回公判までに非公開での話し合いの機会を最低2回以上持ち、判決が確定する予定になっていた。
 エルフリーデは、懐妊中の体調と胎教を考えて、当初周囲にこの裁判の傍聴を止められていた。しかし、今後更に外出が困難になると思われる彼女は、友人を死に追いやった男の顔を一度は直接見ておかなければ一生後悔する気がしていた。
 また、この蛮行に対して、新政府の司法制度が、どのような裁定を下すのか、どうしても知りたかった。
「私は絶対に行くわ。お前たちの言う『公正な裁判』というのを見届けてやるのよ」
 前夜、使用人達から引き留めるよう懇願されて、彼女の意思確認をする夫に向かって、エルフリーデはそう言い放った。
 その強い眼差しに、帝国元帥である夫は、「そうか」とだけ言って、妻を思い留まらせる役目を放棄した。。
 結局、エルフリーデは、途中で何かあってもすぐに対処できるよう、別室にシュヴァイツァー夫人と主治医を控えさせる条件で、ヒルダと共に裁判の特別関係者傍聴席に座った。
 開廷の手順や席次は以前の時とほぼ同じで、全員が起立し、裁判長が開廷を宣言することから始まった。
 関係者全員に配られた資料によると、この裁判の被告人は、元帝国軍上等兵で、宇宙艦隊司令部の中にあって、医療班の衛生兵として勤務していた29歳の男である。逮捕、起訴と同時に軍籍を剥奪され、今は一介の市民として裁判を受けている。
 男は、入廷すると同時に、ヘレーネやカルツ夫人の座る原告側遺族席へ向かって深々と頭を下げた。
 前回の裁判と同様、犯した罪の凶悪性からは想像できない程、平凡で無害な若者に見えた。
 一つ違っていたのは、前の裁判の被告人の態度が、どこか演技くさかったのに比べ、今日の男は、傍目にも本当に憔悴しきっており、心から罪を悔いているように見えることだった。
 ずっと罪悪感に悩まされていたらしく、捜査の手が伸びた時も、往生際の悪い者が多い容疑者達の中にあって、DNAの一致という決定的な証拠を突きつけられる前に進んで詳細な自白をし、自首扱いになっている。
 全員着席し、裁判が始まると、最初に証言台に立ったのは、意外にも帝国軍中将の軍服を着た恰幅のいい中年男だった。
 彼は、自信満々の態度で自らの姓名と階級、現在の職務と被告人との関わりを述べると、ゆっくりと、陪審員の方へ体を向けた。
 この将官は、宇宙艦隊司令部の後方で、病院船や修理艦約2000隻を指揮統括する司令官であり、階級からして被告人の直属の上官ではないし面識もないという。しかし、被告人の同僚及び直属の上官達からの強い嘆願により、帝国軍の医療班を代表するつもりで、皇帝陛下やミッターマイヤー元帥の御不興を買うことも覚悟の上、この証言台に立つことを申し出たというのである。
 ヘレーネは、同じ帝国軍人として、身震いするようなおぞましさを感じたが、隣のカルツ夫人としっかり手を握り合いながら、必死で自分を抑えていた。
 エルフリーデとヒルダも、それぞれの膝の上で拳を握り締め、目の前の将官への嫌悪の気持ちをじっと堪えた。
「彼は、確かに罪を犯しました」
 証言台の中将が、よく響く声で、36名の陪審員に向かって話し出した。
「しかし、彼は既にその報いを受けております」
 ヒルダが、はっと顔を上げる。
 なんだろう? この既視感は?
 証言台の男の言葉は、被告の生い立ちを語り始める。
 被告人の男は、リッテンハイム侯の領地惑星で、平民家庭の次男として生まれる。父親は、侯爵家の従僕で、母は結婚前まで同じ邸の下女だった。
 父は、当時の多くの門閥貴族の下働き同様、少ない賃金で牛馬のように働かされており、家は貧しかった。
 兄が徴兵され戦死すると、間もなく父も身体を壊して働けなくなり、被告の男は、義務教育を終えるとすぐに、父同様リッテンハイム邸の従僕となる。
 成人に達すると、病身の父と母を養う為、徴兵を免除される代わりに侯爵家の私兵となり、以前より更に激務だが、若干高い給与で一家を養うことができるようになった。
 初等教育しか受けていない男は、帝国語の読み書きと生活に必要な最低限の簡単な計算くらいしか学問をしたことがなく、何事も上の人間の命じることに従う以外生きる術はないと思い込んで育った。
 事件の後、正規軍に編入された男は、適性試験を受けて、思いがけず初期医療の専門コースの受講を奨められる。そこで男は約半年の間、一般教養と初歩的な医学知識を学び、初めて高等教育に触れる機会得る。
 更に半年の実地研修の後、周囲も驚くスピードで知識と技能を吸収していった男は、看護助手の衛生兵として、ラグナロック作戦、バーミリオン会戦に従軍、献身的に職務に従事し、数多くの負傷兵の命を救った。その数は、彼が上司の命令に任せて行なった犯罪の被害者の数百倍になるだろうと言う。
 また、この間にオーディンで上官の紹介で知り合った女性と結婚し、一児をもうけている。
 因みに、この男は、36型に感染していたが、未だ発症はしておらず、現在のところ薬で発症を抑えられている。このペースで行けば、重篤化する前に特効薬の完成が間に合う可能性が高かった。また、幸いにも彼の妻子には感染は見られなかった。
 彼は、このままあと1年現場で経験を積み、資格試験に受かれば准看護師として軍曹に昇進可能で、更に2年以上の現場経験があれば、正看護師として准尉にという道も開けていたはずだった。
 ゴールデンバウム王朝が続いていれば、一生を辺境惑星で埋もれていたかもしれない男は、生まれて初めて自分の人生に光を見出した矢先に、思わぬ旧悪が暴かれたのだ。
 そこで、彼の人生は再び暗転する。
 公正で有能な新王朝の行政官が治める平和な故郷で、漸く安定した暮らしを始めていた両親は、息子の犯行が公になると、周囲の好奇と非難の目に耐え切れず、そろって首吊り自殺を遂げた。
 被告の男は、その知らせを受けると泣き崩れ、改めて自分の犯した罪の重さを思い知ったのだと言う。
 また、妻と生まれたばかりの娘を犯罪者の家族にしない為に離婚した。
 弁護側証人の中将の言う「既に報いを受けている」とは、これらことを指しているのだろう。
 エルフリーデは、彼の言いたい理屈は理解できないでもなかったが、それでも何かが違うと思った。ただ、それを第三者に説得力のある言葉で説明できないのがもどかしかった。
「陪審員及び裁判官の皆様に申し上げたい。彼が罪を犯してしまったのは、彼一人の人格によるものではなく、今申し上げた当時の社会事情に拠るところが大きいと、私は考えます。彼も、彼の家族もまた、ゴールデンバウム王朝の下で、門閥貴族によって不当に搾取され、虐げられてきた被害者なのです。もし、あのまま旧体制が続いていれば、彼は一生、医療従事者という自分の適性を知ることもなく、それによって救われた命もなかったかもしれません。どうか、このことを、ご熟考願いたい」
 陪審員達の空気が、それまでと微妙に変わる気配がした。
 中将は、更に言葉を続ける。自分の論理に、完全な自信を持っている口調だ。
「彼は、罪を犯しました。だが、同時に、彼が軍の衛生兵として、どれ程の命を救ったか、その成果も、我々は彼を裁くに当たって考慮すべきではないか。罪があり、報いがあり、最後に成果が残ったのです。どうか皆さん、この誠実で有能な青年の未来をたった一度の過ちで閉ざすような判決は避けて頂きたいと、切にお願い致します」
 最後に陪審員席に向かって深く一礼する将官を横目に、ヒルダは、雷に打たれたように固まってしまっていた。
『罪があり、報いがあり、最後に成果が残ったのです』
 なんだろう、これは? これは、私の言葉? まだ人の痛みを知らない世界の、もう一人の私自身の言葉か?
 隣のエルフリーデが訝しげに視線を傾けるのも気づかず、ヒルダは己の裡に拡がる深い闇と対峙していた。
 その後、同じく被告人を弁護する立場の証人の意見陳述が続き、それが終わるといよいよ検察側証人として、ヘレーネが証言台に立つ番になった。
 裁判は公開制だが、関係者個人が特定できないよう配慮され、陪審員と証人には映像処理が施され、音声も変えてある。また、一般の傍聴人からは、姿が見えないよう特殊シールドの衝立で仕切っている。
 これにより、ヘレーネが、リッテンハイム侯の娘であることが公にならずに済み、同時に被告人の親族を、世間の誹謗中傷から守る役割も果たせる。
 地球学に基づいた、先進的裁判制度を試験的に導入したものであった。
 ヘレーネは、音も無くすっと席を立つと、静かに証言台に向かった。
 少し前まで弁護側証人を見詰めていた険しい目線は伏せられ、静かな怒りを身体の裡へ押しやっているようだった。
「私が、裁判官と陪審員の皆様に申し上げたいことは一つだけです」
 最も怒りの大きいはずのヘレーネは、驚くほど冷静で、穏やかにさえ聴こえる口調で言うと、陪審員席に向かって一礼した。
「人間の命を…」
 ヘレーネは、意外な言葉で切り出した。
「人の命を、引き算や割り算で考える人を、私は軽蔑します」
 陪審員達の中からどよめきが走り、先程の中将が苦虫を噛み潰したような表情になった。
 だが、一番衝撃を受けていたのは、なぜか関係者用傍聴席に座るヒルダであることに気付いている者はいない。
 ヒルダは、蒼碧色の瞳を最大限に見開くと、全てを理解して小刻みに身を震わせた。
「サビーネは、私のたった一人の妹でした。最後の肉親でした。その妹を殺した人間が、どんなにたくさんの人を救ったとしても、私にはそんなことは関係ありません」
 ヘレーネの口調は、だんだんと強いものになっていく。
「他の遺族の方だって同じはずです。殺された側にとって、殺した人がその後でどんな善行をしたかなんて、関係ないんです。救った人間の数から殺した人間の数を引いた結果がプラスなら、無罪なんですか? 減刑されるんですか? そんな算数の授業みたいな裁判なら、私はこの新たな裁判制度に失望します」
 ヘレーネは、そこまで言うと、激昂ぎみになっている自分に気づき、小さく「失礼しました」と詫びて再び向き直った。
「被告人の立場と、正規軍に入って後の献身は理解致します。ですが、それと、彼が妹や他の被害者の方に対して行なったことは、全く別のものです。罪は罪として、裁いて頂くことが、私の願いです。陪審員の方々は、法律の専門家ではなく、私達と同じ一般市民の中から選出されたと聞いております。ならば、皆様にもそれぞれに大切な人がおありと思います。どうか、もし、私の妹の身に起こった事が、ご自分の娘や恋人にも起こったらと、一度でいいですから考えて下さい。…皆様の想像力と良識に期待しております」
 最後の一言を涙声で漸く言い終えると、ヘレーネは堪らずに顔を背けて自分の席に戻った。
 陪審員席が、水を打ったような静けさに包まれる。
 その後も、被告人について「充分に更生の余地がある。いや、彼は既に更生している」と主張する弁護側と、「罪はあくまでも罪として罰しなければ帝国の秩序は保てない」と主張する検察との間で激しい議論の応酬が続いたが、意見が出尽くしたかに見えた時、一人の陪審員が、裁判長に対して、被告人への質問の許可を求めた。
 質問者の陪審員は、サビーネと同じ年頃の娘を持つというフェザーン在住の帝国人主婦だった。彼女は、裁判長の許可が下りると、被告の青年としっかり目を合せてから尋ねた。
「今、ここで、貴方の量刑について、弁護側と検察側で様々な意見が出ていましたが、私は、肝心の貴方本人がどう思っているのかを知りたいです。どうですか? 貴方ご自身も、弁護団の言う通り、生きて償っていきたいとお考えですか? それとも、ご自分の罪は、ご自分の命で償うべきとお考えですか?」
 女性の真剣な問いに、被告の男は、逡巡の色を見せた。自身の気持ちと弁護団との打ち合わせ内容との間で葛藤しているようだった。
「被告人、答えて下さい」
 数分の沈黙の後、裁判長が促した。
「…わ…私は…私は…」
 男は、俯きながら、やっとのことで口を開いた。
「…生きたいです。生きて、償いたいです…」
 消え入りそうに言う被告人に、質問者の女性陪審員は、裁判長に向かって無言で頷いた。
 そのやり取りが、終わるか終わらないかのうちに、即座にもう一人の陪審員が手を挙げて、再び裁判長に被告人への質問許可を求めた。今度の質問者は、被告人と同年代のフェザーン人の会社員だった。
 法廷は、一人の陪審員が被告人に対して立て続けに質問をすることを禁じているので、しばしばこういうことが起こる。
 被告人が陪審員との問答を続けるうちに、つい自分に不利なことを口走ってしまうことのないよう、被告人の利益を考慮してのルールだった。
「貴方は今、生きたいとおっしゃったが、あなたに殺された人達だって、そう思って、でも貴方も貴方のお仲間もそれを許さず殺してしまったんですよね。貴方は、それを分かった上で、尚、自分は生きたいと言っているのですか? 自分がいかに身勝手なことを言っているか、自覚してますか?」
 若い男性の言葉には、明らかに被告人に対する憤りが込められていた。
「陪審員、質問は一回につき一問でお願いします」
 裁判長が形式上嗜めると、陪審員の青年は、即座に詫びて言い直した。
「では、質問を絞ります。貴方は、貴方に殺された人達のことを考えても、まだ生きたいのですか?」
 陪審員の青年の追求は更に熾烈になった。
 ヘレーネは、そのやり取りを静かに目を閉じて聴いていた。自分の思いが、裁く側の人々に伝わっていることが感じられた。だが、同時に、本来は善良であったであろう被告の青年の、迸るような生への執着もまた同時に感じていた。
「…はい。生きたいです。生きて、もっと、医療のことを勉強したいです。もっと沢山の人達を救いたいです。…妻に、もう一度会いたいです。娘の成長した姿を見たいです…!」
 これが、偽りのない被告の男の本心なのだろう。
 今度は、はっきりと聴こえる声で答えてから、被告の青年は深く項垂れたまま起き上がれないでいた。
 人間とは、かくも業の深い生き物であるのか。
 エルフリーデは、この時初めて憎むべき男に、哀れみを感じた。
 この日の公判は、この質問を最後に閉廷となり、エルフリーデは、控え室に戻ってからシュヴァイツァー夫人と共に帰宅し、ヒルダとヘレーネは、大本営へと戻って行った。
 ヘレーネは、裁判よりもヒルダがひどく落ち込んでしまっていることが気になっていた。
 裁判所を後にして、ランドカーが走り出してからも、ヒルダはずっと無言で俯いたままである。
 これではまるで、どちらが裁判の被害者遺族なのか判らないような消沈ぶりである。
「あの…どこか、お悪いのですか?」
 沈黙に耐え切れなくなったヘレーネが、具合でも悪いのかと心配して尋ねる。
 しかし、ヒルダは尚も無言でゆっくり首を振るばかりである。
「ヘレーネ…私、あなたに軽蔑されない人間になりたいわ…」
 ぽつりとそれだけ言ってまた口を閉ざしてしまったヒルダに対して、ヘレーネは本気で彼女がどうにかなってしまったのではないかと心配した。
「何を仰ってるんですか? 軽蔑だなんて…私は、初めてお会いした時からずっと、フロイライン・マリーンドルフ…いえ、ヒルダを尊敬しています。上司としても、友人としてもです。今も、これからも、ずっとこの気持ちは変わりません」
 だが、ヘレーネの言葉に、ヒルダは今まで見たことのないような悲しげな瞳で見詰め返してくる。
「私…あなたが思っているような立派な人間じゃないわ…」
 言ったきり、ヒルダは再び目を伏せ、貝のように口を閉ざしてしまった。
 ヘレーネがその様子に途方に暮れてしまっていると、ランドカーは大本営に到着した。


 邸に戻ったエルフリーデも、今日傍聴した裁判に対して複雑な思いを抱いていた。
 シュヴァイツァー夫人も、他の使用人たちも、急に口数の少なくなった身重の女主人を心配して、あれこれと世話を焼いたが、メディカルチェック器では異常はないようなので、一安心した。
 胎児の性別が男児であることが判って以来、邸には毎日様々な方面からの祝いの品が届けられて1階の広い一室を占領していた。
 特にフェザーンのベビー用品メーカーや服飾メーカーからのアプローチは大変なもので、既に生まれてくる子供は、5歳くらいになるまでの身の回りの品に不自由しないまでに貯まっている。
 オーディンのロイエンタール邸からは、残っている使用人達が気を利かせて、先代夫人のレオノラが、ロイエンタールを出産する際に誂えたマタニティドレスや、特注した豪華なベビーベット等を高速貨物便送ってきた。
 こちらへ移転する際も、妊娠がほぼ確定していた為、何点か荷物に入れてきたものがあったが、今回のはそれを数倍上回る量だった。
 マタニティドレスは、門閥貴族や皇族の御用達のブティックが、全て1点もので製作したもので、自動化と大量生産化の発達したフェザーンでは逆に手に入り難いものだった。20歳で息子を出産したというだけに、若い妊婦に相応しいデザインが施されている。
 ただ、エルフリーデとは、妊娠時期の季節がずれているため、残念ながらそのままではサイズが合わないと思われた。シュヴァイツァー夫人は、早速、縫製業者を呼び、これからの季節に着られるものを選定して、その時期が来たらすぐにサイズ直しができるように手配した。
 ロイエンタール自身が着たというベビードレスも、新品同様の状態で保たれており、皇子にも劣らない程立派なものだった。
 エルフリーデは、帝国の由緒ある家の慣習に則って、父親から受け継がれたこのベビードレスを、生まれてくる息子の初お目見えの場で着せることを決めた。
 彼女自身のものや、父や母の家から代々受け継がれてきたものは、2年前の爆破事件で跡形もなく吹き飛んでしまってない。
 だが、ロイエンタール家から送られてきたこれらの品々は、そんな寂しさを吹き飛ばすほどの質と量だった。
 他にも、誂えの高級ブランドのベビー服や肌着、おもちゃ、オーダーの靴など、庶民の感覚で見ると、赤ん坊には勿体ないような贅沢品ばかりが揃っていた。
 どの品も、先代主人の財力と、妻への愛情、生まれてくる子供への期待が込められているのを感じる。
 ロイエンタールは、両親のことを良く言わないばかりか、最悪の親子関係だったと言っていたが、この品々を見る限り、エルフリーデにはそうは思えなかった。
 エルフリーデは、その後、遅くなるというロイエンタールと叔父のゴットルプ子爵からの連絡を受け、子爵夫人と子供達とフレデリーケの5人で夕食を摂った。
「エルフィー、裁判の傍聴は、今日で最後になさるの?」
 フレデリーケがさり気無く尋ねる。彼女もシュヴァイツァー夫人同様、身重のエルフリーデがあのような場に出ることに賛成していないようだ。
「ええ。この前と、今日の公判を見て、新体制の裁判制度がだいたいどんなものかわかりましたので、これで最後にするつもりです。判決審の結果はすぐに教えてくれるそうですし、特別に撮影した映像を見せてもらえることになってます。私も、試験勉強と出産の準備でこれから忙しくなりますから、これからは、公務と病院の検診以外の外出は控えるつもりです」
 エルフリーデが、彼女なりの決意を述べると、同じく心配していた義理の叔母のゴットルプ子爵夫人も、顔を綻ばせた。
「そうですわ。何といっても、伯爵夫人はお若いし、初めてのご出産ですもの。大事をとってもとり過ぎるということはありませんわ」
 2人の子爵夫人が顔を見合わせて安堵する姿を見て、エルフリーデもほっとした。
 本当のところ、妊娠も受験も言い訳に過ぎない。当初は、できる限り傍聴し、サビーネを死に追いやった者達の顔を一人残らず見てやるつもりでいた。だが、前回も今回も、罪を糾弾され、晒される被告人を見ても一向に心が晴れなかった。それどころか、どんどん気持ちが沈んでいく。こんな思いをすると精神的にも肉体的にも消耗が激しくて、本当に胎教に悪いように思えてしまう。
 ただ、まだ判決を聞くまでは判断するのは早急と思いながらも、裁判のやり方そのものは、理に叶った公正なものだと思った。
 エフルリーデは、最近になって、大学で学ぶ専門分野を、地球学の中での、「地球時代後期先進文化地域の司法制度」に的を絞っていた。
 その為にも、今回の裁判の傍聴は興味深いものだった。
 大学への入学資格試験には、今年中に受かる自信があったが、志望校であるフェザーン帝国大学の合格は、一度の挑戦では難しいと思われた。目標は、20歳までに合格することだったが、全星域から秀才が集まる中、5回、6回チャレンジしても受からない者も珍しくないと聞く。
 夕食後、エルフリーデは1時間程フェザーン語で書かれた地球学の専門書を読むと、明日は午後から公務が控えていることもあり、早めに就寝するつもりでバスルームに入った。
 明日、先日の爆破テロ事件の解決を祝い、また、犠牲者を追悼する為の式典が、ドームシティに於いて皇帝の名で執り行われることになっていた。同時に、同盟政府に対して、レンネンカンプの死の責任を問う為の帝国側の決定事項が発表されることになっていた。
 エルフリーデが、予てから計画していたことを実行するに相応しい舞台が漸く訪れたのである。
「決行は、不自然にならないよう、時期に相応しい舞台が用意されるのを待つのが賢明」と言うヒルダの助言に従って、この日をずっと待っていたのだ。
 その言葉通り、ヒルダ達は事件解決に多大な貢献をし、思いの外早くその舞台は用意された。
 ヒルダ達対策室のメンバーは、36型の感染が当初の予想以上に抑えられていることと、爆破テロ事件解決の功績を認められ、全員一階級昇進し、勲章を授与される予定である。また、リンザー准将も、事件当日の迅速な指揮により、被害を最小限に抑えた功により少将への昇進が決まっていた。
 犠牲者を悼む為、出席者は全員喪章を付け、派手な演出も抑えられる予定だったが、仲良くなった人達の昇進は、エルフリーデにとっても嬉しかった。
 ミストシャワーで身体を洗い、バスタブに向かおうとした時、ふと、鏡に映る自分の身体に目を留めた。
 最終的には、お腹に5、6kgもの重さを抱えることになると言われていたが、今の時点では全くその気配はない。
 ただ、躰の線が少し緩やかで丸みを帯びてきて、胸の膨らみも増した気がする。
 無垢な少女だったのは、僅か半年前のことだ。それが随分と昔のことのような気がする。
 大人の女の身体になりつつある自身の体を、エルフリーデは様々な感慨を持って暫く眺めていた。
 ジャグジーとアロマオイルの香りの心地よいバスタブに浸かっていると、暫くしてバスルームのドアが開く音がして、ロイエンタールがシャワーブースに入る気配がした。
 間もなく、当然のように、夫は同じバスタブに入って来て、白い円形の湯の中で向かい合った。
 エルフリーデは、もう慣れたので何も言わなかったし、今更誰にも訊けることではないが、いつもこれは夫婦として普通のことなのかと疑問に思っている。
 少なくとも、自分の両親は、絶対にそんなことはしていなかった。
 それとも、この男の両親はそういう人達だったのだろうか? でも、それだと、夫婦関係が破綻していたように言われていることと矛盾している。
「なんだ?」
 ロイエンタールは、何か言いたそうな幼妻に、いつもの彼の言い方で尋ねた。
「なんでもないわ」
 頬を赤らめて、ぷいと横を向いてしまったエルフリーデに、ロイエンタールは黙って自分の身体をずらして彼女の横に座り直すと、幼妻の軽い身体を膝に乗せた。
「どうだ? 新裁判制度とやらは、伯爵夫人のお眼鏡に叶ったかな?」
 この体勢に似つかわしくない会話に、エルフリーデは少し顔を歪めたが、今日傍聴してきた感想を素直に話した。
「ほう。それは結構なことだな。民心への配慮や被告、原告双方の利益は民主共和制の美点を採り、迅速さでは独裁政権の果断さを採用したというわけか」
 ロイエンタールは、珍しく軍事以外のことに興味を示し、新裁判制度を的確な言葉で表現してみせた。
 だが、そう言いながらも、彼の左手は、右腕で抱く幼妻の瑞々しい胸や尻を撫で廻して楽しんでいる。エルフリーデは、既に諦めの境地でされるがままになってやっていた。
「俺は近々出征することになる」
 ふいに、ロイエンタールの手が止まった。
「え?」
 と言って至近距離で合わせた双色の瞳は、エロスの光を湛えて妖しげに輝いている。
 エルフリーデは、催眠術にかかったようにじっと動けなくなってしまった。
 だが、すぐに先程の言葉を頭の中で反芻すると、今度は急に不安になってきた。
「心配するな。同盟軍とは今や圧倒的な戦力差がある。俺は統帥本部総長として、総旗艦ブリュンヒルトで皇帝陛下を補佐する。万が一にも俺が戦死するような事態にはならんさ。第一、戦闘に入るかどうかもまだわからん。相手が恥も外聞も捨てて無条件で帝国軍の侵攻を受け入れる可能性もゼロではないしな」
 ロイエンタールは、彼にしては珍しくそんな気休めを言った。
 そんな事態になるなら、ヤン一党はレンネンカンプを拉致したりはしなかっただろうし、行方を晦ましたりもすまい。
 恐らく、同盟軍内でも、ヤン・ウェンリー一党に賛同する勢力が、最後の抵抗を試みるだろう。
 皇帝は、既に上級大将以上の軍最高首脳に対しては、1日の御前会議で出兵の意思を宣言しているが、明日の式典では、正式にそのことを帝国全土に布告する予定だった。
「そう…」
 だが、エルフリーデはそう言うと同時に、くてっと身体から力が抜け、ロイエンタールの肩口に顎を乗せた格好のまま動かなくなってしまった。
「おい?」
 この時になってやっと彼女が湯中りしたことに気づいたロイエンタールは、バスタブからエルフリーデを掬い上げると、バスタオルに包んで寝台に横たえた。
 どうやら、話し込んでいるうちに、1時間近くも湯に浸かってしまったらしい。
 ロイエンタールは、すぐにインターフォンで使用人に、水と冷却シートを持って来るよう命じた。その間、自身は慌ててバスローブを羽織り、熱を帯びたエルフリーデの額の汗をタオルで拭ってやっていた。
 1分と待たずに、執事とシュヴァイツァー夫人が現れると、ロイエンタールは全裸のエルフリーデの体をバスタオルと毛布で隠しながら水を飲ませ額に冷却シートを貼り付けた。
 シュヴァイツァー夫人が、奥様が脱水症状を起こしていることに気づき、侍女に命じて吸収の良いアイソトニック飲料を持って来させて飲ませると、エルフリーデは薄っすらと目を開け、急激に上がった体温も徐々に正常に戻ってきた。
 ほっとした一同は、念の為主治医の往診を乞い、懐妊中の子に異変がないか診断を仰いだ。幸い5分後に駆けつけた産婦人科の女医が、胎児に別状はないことを伝えると、騒ぎは漸く落着したかに思えた。
 しかし、そう思ったのは、邸の主人だけで、執事も主治医も侍女頭も隣室の専用リビングで、帝国元帥たる主人に向かって、全員顔を顰めている。
「旦那様、お気持ちはわかりますが、今は大事な時でございます。どうかご自重を」
 と言う執事の言葉を、一瞬ロイエンタールは理解できなかった。
「元帥閣下には、誠にご無礼ながら、奥様とお子様の為に、医師として敢えて申し上げます。どうか、安定期に入るまでは、夫婦生活には尚一層のご配慮をお願い致します」
 それを聞いて、ロイエンタールは自身が多大な誤解を受けていることに漸く気づいた。
「本当に…仲がお宜しいのは、私どもも大変喜ばしいことではございますが…何事もなかったからよいようなものの、寿命が縮む思いでございましたわ」
 シュヴァイツァー夫人も頭を抱えて見せる。
 ちがう。誤解するな。俺達はただ今日の裁判の様子と明日の式典の話をしていただけだ。つい長話になって気づいたら湯中りしてしまったのだ。俺はそこまで好色ではない。
 と、反論したい気持ちをロイエンタールはぐっと堪えた。
 今更彼がそんなことを言っても、信じてもらえないのが自分でも解っているからだった。
 結局ロイエンタールは、3人の年配者の前で、「わかった。以後気をつけよう」とだけ殊勝に言うことで、この件を終わらせたのだった。


 翌11月5日は、朝から式典の準備で大忙しだった。
 この日の午後からの式典には、エルフリーデだけでなく、義理の叔母であるゴットルプ子爵夫人も、フレデリーケも夫と同伴で列席することになっていた。
 ゴットルプ子爵とロイエンタールは、昼過ぎに一旦こちらに戻って礼服に着替えてから夫婦揃って出掛ける予定だったが、フレデリーケは、ここで支度をして、別居中の夫とは現地で落ち合うのだという。
 今日はいよいよ計画を実行する日である。
 エルフリーデは、早朝から協力各者に端末で連絡をとり、下準備に余念がなかった。
 しかし、この計画の最初の重要点は、式典にフレデリーケを欠席させなければならないことだった。
『フレデリーケ様、ごめんなさいっ!』
 エルフリーデは、心の中でそう詫びながら、朝食のフレデリーケのコーヒーに即効性の下剤の粉末を入れた。

コメント一覧

ゆうやん (08/07 23:40) 編集・削除

タイミングよく来合わせてラッキーしました。
裁判ですね・・・確かにこれは甘甘とは程遠い。しかし、やっぱり私は

>今更彼がそんなことを言っても、信じてもらえないのが自分でも解っているからだった。
本日一番これにウケてしまいました。きっと読者みんな反応すると思うんですよ。真人間になったのに今までの素行が悪すぎて信用度が悪いなんて絵に描いたような自業自得wwww

次回エルフィの悪巧みwいよいよ発動ですね。計画通りにうまくいってフレデリーケさんが無事めでたく離婚できますように!!

りっく (08/08 00:28) 編集・削除

裁判重たいですね。
ヒルダの苦悩もわかります。


しかし最後の最後で下剤って・・(爆)

べる (08/08 03:45) 編集・削除

スピンオフから続く真摯な内容をじっくり堪能し、
ヒルダたんの心の動きに唸ったあと、
エロオヤジなロイにワクワクし…、
最後は下剤……wwww。
夜に起き出して、一気読みしましたわw

>帝国元帥たる主人に向かって、全員顔を顰めている。
:いいぞ!もっとやれ、使用人!!

Jeri (08/08 11:41) 編集・削除

>ゆうやんさん
ロイが信用を得るには、あと20年くらい身を謹んで生活しないと無理かもw

>りっくさん
はい。重い話を書いてしまいました。
でも、どこかでどうしても入れたかったことです。
最後の下剤ですが、別に「丸一日仮死状態になる薬」でもよかったんですが、それだと事が大袈裟になるので、下剤で落ち着きました。

>べるさん
真人間になったのと比例するように、ロイのエロオヤジ化には拍車がかかるようになってますw
これから出征まで時間ないので、更にエスカレートする予定です。

りっく (08/08 22:08) 編集・削除

うーん、睡眠導入剤なんてどうざんしょ、と思いましたが、それだと気合いがあれば(式典に出なきゃとかのプレッシャー)、結構起きてはいられるらしいので、頭ぼーっとするだけで、下手すると式典で居眠りして逆に恥かく可能性がありますね。難しい。

入手のしやすさは、下剤が上ですし。

しかし本当「許して」ものですな。

Jeri (08/09 10:56) 編集・削除

>りっくさん
そうです。睡眠導入剤は、気を張って我慢して起きていることもできなくはないし、一番副作用がなさそうで、入手も楽なのが、やっぱ下剤かなとw
私の経験上、飲みすぎても殆どの場合、1日経てば治りますし。一方睡眠薬の場合、効果を期待して強いものを飲むと、数日間朦朧としちゃうとかもあります。

エルフィーでハーレクインもどき書いてみる(43)

はじめに

この長文記事は、「銀英伝をハーレクインロマンス化する」というコンセプトで書かれたブログ不定期連載小説です。原作準拠の世界観から、「リップシュタット戦役の最中に、高齢のリヒテンラーデ公がキルヒアイスよりに先に亡くなってしまった」というIFで始まり、そこから原作世界とは違う方向に話が進みます。主人公は、前述の事情で一部粛清や流刑を免れたリヒテンラーデ一族の一人、エルフリーデです。彼女が流刑になっている親族を救う為、ロイエンタールと政略結婚し、ハーレクインロマンスもどきのツンデレ恋愛劇を繰り広げるベタベタで甘々な夢小説です。所謂「ノーマルカップリング話」、「ロイエル小説」ってやつです。キルヒアイスを除く帝国&同盟の主要キャラの殆どが死なずに皆で幸せになる予定。作中唯一のハーレクイン男、ロイエンタール元帥のお子ちゃまぶりを愛でつつ適度にイジメてます。原作者のご意向に沿って、BL、801などはありません。1~2週間に一度ペースの更新頻度を目指し、今のところ60回程で終了予定です。
長くなってしまった為、ブログを辿るのが面倒だろうということで、読みやすいように、倉庫に収納しました。検索などではじめてここに辿り着き、「最初から読んでやろう」という奇特な方は、↑の「Log&Presents」をクリックしてこちらからどうぞ。ブログに掲載したものは、3、4回分ごとに、不定期に倉庫へ転載していく予定です。

 首都星オーディンの帝都西方へランドカーで数時間、周囲半径3キロ以内に警備棟以外の他の建物が存在しない隔絶した豊かな自然に囲まれた山岳地帯に、新銀河帝国皇帝の姉君であるグリューネワルト大公妃アンネローゼの住まうフロイデンの山荘はあった。
 彼女の望む質素で静かな生活を脅かさないよう、警備の人員は極力少なくし、大公妃自身にも近侍の者達にもできる限り警護の兵士達の姿が見えないよう配慮がなされていたが、それでも山荘に続く唯一の径入口での出入りの人物に対するチェックは厳重なはずだった。 
 その女性が現れたのは、残暑の厳しい8月25日の午後のことだったという。
 日用品や食材を定期的に運び込んでいる業者以外での訪問者は、極めて珍しい。
 年若いとは言い難いが、かと言って中年と言うには些か憚られる年齢の美しい女性は、担当の警備員に対して、自らを「アンネリーゼ・フォン・ミューゼル」と名乗ったという。
 身分証を提示しないその女性を、身体検査はおろか所持品の検査もせずに通した理由を、彼女が名乗ったその名が誰もが知る皇帝姉弟の旧姓であったことと、碧玉色の瞳に黄金色の髪、何よりも山荘の女主人とよく似た面差しをしてたことにあると、後にその担当者は証言している。
 それでも警備の責任者は、念のため直通回線で山荘に連絡を入れると、大公妃自らが即座に、
「失礼のないようお通しして下さい」
 と言ったという。
「お待ち申し上げておりました。そろそろいらっしゃる頃と思っておりましたわ」
 自ら玄関まで出向いてそう言った大公妃が、静かな憂いを湛えた瞳に、うっすらと涙を浮かべていたのを近侍の一人の女が見ていた。
 無言で抱擁した二人は、端から見ると、まるで親子か姉妹のようによく似ていたという。
「お久しぶりでございます」
 アンネローゼは、とうとう堪えきれずに、はらはらと涙を流しはじめた。
「相変わらずなのね。泣き虫ローゼ」
 そう言うと、アンネリーゼと名乗った夫人は、大公妃の顔を両手で包み込むと、頬の涙を指で丁寧に拭ってやっていた。
「ええ…ええ…私は今でも泣き虫で、弱虫で、誰よりも脆くて…」
 そんな台詞を口にする大公妃殿下の言葉に、いつも間近で仕えている者達は、少なからぬ驚きを感じていた。
 彼らの知る限り、皇帝陛下の姉君であるこの方は、一見嫋やかだが、芯の強い女性で、悲しいことや辛いことにも決して感情を露にすることはなく、ただじっと耐え忍んでいるイメージがあった。
「やっとここに来ることができました…」
「ええ…私も、やっと、お会いする覚悟ができました…」
 二人は、応接室に向かい合うと、懐かしい昔話を静かに語り合い、再会を喜び合っていた。
 誰が聞かずとも、もうこの夫人が、大公妃の、しいては皇帝陛下の親族であることは疑いない。
 この時は、誰もがそう考えたのは、責められなかった。
 彼女の正体をこの時点で見破ることは、警護の兵士達と近侍の者達の誰一人として不可能だっただろう。
「ここにいらした目的は、解っているつもりです」
 ティーセットを運んで部屋を退出しようとするコンラート・フォン・モーデル少年の耳に、アンネローゼの覚悟を秘めたような声が聴こえた。
 瞬間的に強い不安感を覚えたコンラートは、思わず二人の貴婦人を振り返ってしまった。
 だが、アンネローゼも来客の夫人も、静かに向かい合ったままだった。
「この時をずっと待っていました」
 敬愛する大公妃殿下が、自分によく似た夫人に向かって、静かに言葉を継いだ。
「だた、一つだけお願いがあるのです」
「何でしょう?」
「半年、いえ、ほんの2、3ヶ月で結構ですから、私とここで暮らして頂けませんか? そうしたら、心残りなくお供をさせて頂きます」
 コンラート少年には、この言葉の真意を察することはできなかったが、とりあえず、大公妃が、この肉親と思われる夫人に暫くの滞在を請うていることだけは理解できた。
「ええ、わかりましたわ。急ぐことでもなし、2、3ヶ月の間でしたら、久しぶりに昔に戻って、一緒にお菓子を作ったり、刺繍をしたりしてみるのもいいかもしれないわね」
 夫人が柔らかく微笑して、アンネローゼの希望を受け入れる意思を示すと、大公妃はいつになく嬉しそうに忠実な近侍の少年に笑顔を向けた。
「コンラート、お部屋の準備をするように言って下さい。叔母様のお部屋は、私の隣でいいわ」
「かしこまりました」
 コンラートは、急いで部屋を出ると、女性の召使いや他の下働きを動員して、急いで空き部屋になっている部屋を掃除し、家具やリネン類を運び入れて、滞在できるよう整えた。
 それでも殺風景な部屋に、他の客間にあった絵画を飾り、最後にチェストの上に、アンネローゼ自らが庭で摘んだ花を花瓶に飾ると、居心地の良さそうな女性らしい部屋が出来上がった。
 その日以降、アンネローゼとアンネリーゼは、約束通り、2人で近くに山菜採りに行っては自ら夕食の食材を手に入れてきたり、毎日のようにお菓子作りに励んで使用人達や時には警備兵にまで振る舞った。
 2人で深夜まで相談して図案を考えた刺繍をした布でクッションカバーやテーブルクロスを作っては、出来上がる度に歓声を上げて喜んだ。
 アンネローゼは、時にまるで少女というよりも幼女のように叔母だという女性に母親に甘えるように甘えていた。
 その姿は、今まで見てきた皇帝の姉としての達観した態度とは別人のようだったと、後に近侍の者たちは事情聴取で異口同音に答えている。
 もしかしたらそれは、早くに母と死別し、15歳で後宮に納まるという少女時代が極端に短かったアンネローゼの、ずっと胸に秘めていた願望だったのかもしれない。
 こうして、自然とフロイデンの山荘の住人に溶け込んだアンネリーゼと共に、その後、皇帝が大本営をフェザーンに移転すべくオーディンを離れた後も、暫くの間、2人の平穏な生活は続いていた。

 全宇宙に衝撃を与え、後世に『20万隻の大撤退』と呼ばれる事件の予兆は、こうして静かに幕を開けていた。


 10月30日、ヒルダ達が、爆破事件解決の為の最後の仕上げに奔走しているこの日、エルフリーデは、予定していた翌31日の検診を病院側の都合で急遽1日前倒しで受けることとなった。
 フェザーンの医療技術により、染色体検査で胎児の性別が判明する時期になっているからである。
「おめでとうございます。男のお子様です」
 立ち会った病院長自らがそう告げると、主治医や副主治医、看護師等スタッフ全員が祝った。
「お子様は、発育も順調でお健やかです。元帥閣下もさぞお喜びのことでしょう」
 主治医も満面の笑みで型にはまった祝福の言葉を言う。
「旦那様には、すぐにお知らせいたしますか?」
 付き添っていたシュヴァイツァー夫人が、耳元で微笑する。
「いえ、わざわざ連絡するほどのことでもないでしょう。帰ったら私から言います」
 当人のエルフリーデが一番平静だった。
 男児と聞いて、喜んでいいのか、残念なのか、自分でもよく判らないというのが本当のところだった。
 帝国の旧社会の慣習に従えば、夫に家の跡継ぎとなるべき男子を授けたのだから、妻としての役割を果たしたことになるし、子供が無事生まれて育てば、正妻としての地位の安定にも繋がる。しかし、旧体制の価値観を否定する現体制下では、どうなのか?
 ゴールデンバウム王朝は、圧倒的な男性優位社会だったが、なぜか建国当初から女性の爵位継承が認められており、女帝の即位さえも禁じてはいなかった。これは、始祖ルドルフ大帝に嫡出の男児がいなかったことが遠因だと思われる。
 それでも、下は平民から上は皇室まで、家を継ぐのは前当主の長男であるというのが全国民的な常識であり、女当主は男子のいない場合の特例という考えが帝国民のほぼ全てに染み着いた固定観念だった。
 故に、結婚して早々に男児に恵まれるのは、それだけ目出度いことだとされていた。
 ローエングラム王朝に代わり、皇帝以外で父親の地位や権力を世襲することを、急速に法規制する方向に向かっているが、相続税を支払った後の財産と、生き残った貴族の爵位の相続は認められる。
 女性の高等教育の推進や社会進出を後押しする為の立法案も次々と可決され、近い将来には、帝国女性もフェザーンや同盟のように、男性と同等の権利を有することになるだろう。
 そのような社会変動の中でも、やはり帝国の支配層にとって、男子の誕生は目出度いということになるのだろうか。
 エルフリーデのお腹の子は、母親の伯爵号と父親の莫大な財産を受け継ぐことが約束されている。
 乳児死亡率が高かったこれまでの帝国と違い、フェザーンの先進医療を受けて出産するこの子は、まず順調に育つと見て間違いないだろう。
 しかし、男の子だから目出度いと言わんばかりの周囲の大人達に対して、エルフリーデは口に出せない反発を覚えていた。
 では、女の子だったら目出度くないのか? と思わず反論したくなってしまう。
 実際、処刑や暗殺で命を落とした男達に代わって、コールラウシュ伯爵号を継ぎ、代々帝国の官界の一大派閥を担ってきたリヒテンラーデ一族の命脈を新王朝の中で辛うじて保っているのは、他ならぬ自分だという自負がある。
 そう言えば、以前にも同じようなことがあった。
 一言で言えば、それは大人の世界の「本音と建て前」と「ずるさ」を実感する出来事だった。
 旧王朝の末期、政務に意欲のない皇帝に代わり、国務尚書として実質帝国を治めていた大叔父リヒテンラーデ候は、ルードヴィヒ皇太子が存命の頃は、常々一族の娘達の前でこう言っていた。
「よいか、銀河帝国第38代皇帝は、お前達の中の誰かが産むのだ。これ以上無能な女婿達に国政を壟断させてはならぬ。まして、卑しき血筋の者に皇位を継がせては決してならぬのだ。我がリヒテンラーデ一族の高貴にして優良な血統こそが、全人類の支配者たるゴールデンバウム王朝の皇統と交わるに最も相応しいのだ。お前達も常にそのことを心得よ」
 まだ幼かったエルフリーデには、それが自分に対しても向けられている言葉であるという意識はなかった。
 エーリッヒを慕っていた彼女にとって、ずっと年上の大人である皇太子は、遠い存在だったが、権門の貴族令嬢らしく、未来の皇后様には、一族の女性の誰かがなれば誇らしいという漠然とした思いはあった。
 後になって知ったことだが、皇太子には、ずっと身分の低いご執心の女性がいて、その所為で周囲の権門が揃って結婚を勧めても、なかなか首を縦に振らなかったらしい。
 父親のフリードリッヒ4世は、元々息子の嫁選びなどに無関心で、母の皇后が亡くなってからは、強く言える人間もいなくなった為、皇太子妃の座はずっと空席のまま、当時の有力門閥貴族達の駆け引き材料になっていた。
 本来なら自分の実の娘を皇太子妃とするのが、外戚として権力を掌握する最も有効な手段だが、ブラウンシュバイク公もリッテンハイム候も、今上皇帝の女婿故に、その娘は皇太子にとって姪に当たり、未来の皇帝の外祖父たる資格がなかった。
 直系子孫に適当な娘がいないのは、リヒテンラーデも同じで、孫のマリア・アンナは、彼から見て皇太子の気を引けるような容姿ではなく、年齢も離れ過ぎていた。
 だが、できるだけ血縁の近い一門の娘から皇太子妃を出したいという思いは、大貴族達の共通した悲願であり、下級貴族出身の皇太子付女官が、エルウィン・ヨーゼフを出産した後も変ることはなかった。
 旧体制下では、身分ある男が結婚前に庶子をもうけていることはよくある話で、エルウィン・ヨーゼフも本来なら皇帝の庶長子として、将来は何某かの爵位を授与されて臣籍に下るはずの子供であった。
 皇太子自身は、エルウィン・ヨーゼフの生母を本家筋の男爵家を仮親に立てて、正式な妃とする意向を示していたが、これには当時の閣僚がこぞって反対した為叶わなかった。
「あのような下賤な母から生まれた者が、皇位を継ぐことはない」
 大叔父も、父も母も、周囲の大人達は皆そう言っていたのをエルフリーデは今でも鮮明に覚えている。
 この意向は、ブラウンシュバイク公やリッテンハイム候の一門の中でも同じだったらしいが、特にフリードリヒ4世と直接の縁戚関係のないリヒテンラーデ侯の主張は強弁だったという。
 ところが、肝心の皇太子ルードヴィヒが早世し、エルウィン・ヨーゼフの生母も後を追うように亡くなると、リヒテンラーデは態度を豹変させる。
 皇太子妃冊立反対の急先鋒であったはずの彼は、亡くなったエルウィン・ヨーゼフの生母に皇太子妃号を追贈して、その遺児であるエルウィン・ヨーゼフに皇位継承の可能性を残す布石を打ったのだ。
 そして、フリードリッヒ4世が亡くなると、ブラウンシュバイク公やリッテンハイム候のような神輿を持たないリヒテンラーデは、あれほど母親の出自を理由に皇位の継承を否定し続けていたエルウィン・ヨーゼフを皇帝に祭り上げ、当時のローエングラム候ラインハルトと手を結び、やがてリップシュタット戦役へと向かったのである。
 当然、フリードリッヒ4世の嫡出の皇女達とその夫は黙ってはいられない。
 これが、皇位継承争いとしてのリップシュタット戦役の側面だった。
 帝国臣民、特に門閥貴族の子女は、ルドルフ大帝以来の血統こそが、人間の価値基準を決めると教えられて育つ。
 伯爵家に生まれたエルフリーデも、そうして育てられた貴族の姫君の一人だった。
 ところが、一族の長であり尊敬していた大叔父が、主張を一転させ、卑しい血筋と蔑んだ少年を皇帝陛下と崇めたのだ。
 この豹変ぶりは、エルフリーデの中に、大人達への少なからぬ不信感を生んだ。
 しかし、だからと言って、これまでずっと刷り込まれてきた価値観を、全否定して真実を見極められるほど、この当時の彼女は大人ではなかった。
 だが、あれから目まぐるしく世の中が変わり、旧社会の価値観の殆どが否定された今となっては彼女にも解る。
 大叔父は、別に本心から血統の優位など信じていたわけではなかったのだ。ただ、自分たちが政治の実権を握る方便として、血筋や家柄に根拠を求めたに過ぎない。考えてみれば、大叔父だけでなく、その側近の一族も、本当に血筋による人間の優劣など信じていなかったのではないか。逆に最後まで純粋に信じていたのが、ブラウンシュバイク公やリッテンハイム候と彼等に従った現王朝では愚か者の代名詞のように言われている一部の貴族達だけだったのではないかと、エルフリーデは、最近になってそう考えられるようになってきた。
 エルフリーデがそんな物思いに耽っていると、主治医からフェザーン人で最近広く普及している自宅用の簡易健康チェック機器を渡され、シュヴァイツァー夫人と一緒に操作説明を聞いて受け取った。
 操作と言っても、ごく簡単なものである。少し太めのペン型の機器のセンサー部分を被験者の肌の一部に10秒ほど充てると、血圧、脈拍、体温、血中酸素濃度、血糖値、血中タンパクなどのデータが検出され、携帯端末に接続すると、画面にデータが映し出されて保存することができる。また、こめかみ部分や額に当て、脳内測定モードに切り替えると、脳波や、脳内で分泌される脳内物質や血流の測定も可能とのことだ。
 それを今後出産まで毎日朝晩2回行い、データにとって検診時に提示することになる。


 邸に戻ると、シュヴァイツァー夫人が先に執事に連絡していたらしく、使用人達は全員喜色満面で女主人を出迎えた。
「ああ、皆さん、くれぐれも旦那様にはご連絡無用ですよ。お帰りになられたら、奥様のお口から直接お伝えするのですからね」
 シュヴァイツァー夫人が、少し得意げに他の使用人達に注意を促すと、皆それぞれ心得た態度で頷いた。
 エルフリーデにしてみれば、多少心外だった。彼女は格別、「嬉しいニュースを直接伝えたい」などという乙女心からロイエンタールへの連絡を制止したわけではない。
 自分以上に子供の性別などに関心のなさそうな男に、仕事中にくだらん連絡をするなと言われて不愉快な思いをするのが嫌だったからだ。
 互いに愛し合っているのを自覚しても尚この有様な自分達に、エルフリーデ自身、自分の頑固さと意地っ張りが時に厭になることがある。
 部屋で着替えを済ませ、悪阻を抑える香りを吸いこんで、いつものように受験勉強に没頭し始めると、瞬く間に時間は過ぎていき、気づけばすっかり窓の外は星空だった。
 この部屋の最新の照明装置は、部屋の明暗を感知して、それに合わせて明るさを自動調整していくので、陽が落ちるのに合わせて徐々に明るさを増していった部屋に、エルフリーデも時間が経つのを忘れていた。
 ロイエンタールは、午後8時少し前に帰宅した。彼にしては随分と早い帰りである。
 エルフリーデは、公用車の車列が車寄せに付けられるのを窓から見ると、逸る心を抑えながら、足早に階下に降りていった。
「おかえりなさ…」
 と言いかけた幼妻に浴びせられたのは、しかし、夫の叱責とも聴こえる言葉だった。
「走るな!」
 エルフリーデは、少しムッとして歩みを止め、今度はわざとゆっくりと足を進め、しずしずと夫の前に立った。
「お帰りなさいませ。旦那様」
 貞淑な言葉に似あわないキツイ眼差しの青の瞳が、ロイエンタールを見上げる。
 彼は、いつものように少し唇の端を上げた笑みを漏らしながら目を伏せ、幼妻を軽く抱き寄せた。
「転んだりしたらどうする? 普通の身体ではないのだぞ」
「…ごめんなさい…」
 エルフリーデは、自分でも驚くほど素直に詫びると、2人はそのまま自分達の部屋へと入っていった。
「お前の息子よ」
 エルフリーデは、部屋に入るなり端末にダウンロードしていた胎児の最新映像を投影させながら言った。
「うむ」
 ロイエンタールは、まだ数センチの胎児の部分に目を遣りながら、どう反応していいものか一瞬途方に暮れた。
 本来なら、ここで喜びを露わにし、家の跡継ぎたる男児を産んでくれる妻を労い褒めてやるのが帝国人の夫たる者がとるべき態度だということくらいは、彼も知っている。
 だが、彼にとって父と息子の関係とは、自分と自分を忌み罵り続けたあの父親との関係に他ならない。かと言って、もし女児だと言われたら、それはそれで余計に返答に困るだろう。
「どんな子なのかしら?」
 エルフリーデが、話題転換のつもりで、まだ辛うじて人間の形をしているだけの物体を見て言った。
「ん? それは俺達の子なんだから、俺とお前を足して2で割ったような子だろう」
 何の感情もない言い方に、エルフリーデは失望した。
 やはりこの男には、私の産む子などに興味はないのだろう。
「身も蓋もない言い方ね。もういいわ」
 そういって、ぷいと身を翻し、端末を閉じようとしたエルフリーデだったが、ふと先日、最近毎日閲覧するようになった妊婦専用のコミュニティサイトからダウンロードしたシュミレーションソフトを思い出して起動してみた。
 父親と母親の映像と身体データを入力し、まだ生まれない胎児の出産後の姿を何通りかシュミレーションするというものだ。
 今まで性別が判らなかったので、あまり気にしなかったが、今日、男児と判って、急に興味が湧いてきた。
 エルフリーデは、すっかり操作の慣れた手つきで入力を完了すると、生後6ヶ月の我が子の予想映像を3通り映し出した。
「わぁ、かわいいっ!」
 その声に思わず反応したロイエンタールも、端末画面に写し出された3通りの乳児の合成写真に視線を向けた。
 画面には、右側に「父親似タイプの子」、左側には「母親似タイプの子」、そして真ん中には、2人の特徴をほぼ当分に配置された子の画像が映っていた。
 ヘテロクロミア(虹彩異色症)が遺伝しないという医学的常識に基づいて作成されているのか、どの子も多少の色の違いはあるものの、全員両目とも青い。
 髪の色は、父親似タイプの子は、ロイエンタールより僅かに明るいダークブラウン系で、母親似タイプは金髪、真ん中の子は、先ほどのロイエンタールの言葉通り、足して2で割ったような褐色である。
 当然ながら、3人とも非常に貴族的で整った顔立ちが共通している。皮肉なことに、ロイエンタールが最も嫌悪した門閥貴族の子供の典型のような顔をしているのだ。
 それでもエルフリーデは、間もなく対面する我が子かもしれない映像に、端末を抱きしめんばかりに感激している。
 ロイエンタールは、流石に30男の冷静さで、エルフリーデの端末をそっと手に取ると、画面の端に申し訳程度に但し書きされている「この映像は、あくまでもデータから数値的に算出したシュミレーションであり、実際に生まれるお子様の容姿を保証するものではありません。生命誕生の神秘は、時に予想外の結果を生み出すことがあります。実際に生まれたお子様がシュミレーションと違っていても当社としては一切の責任を負いません。あくまでも、話のタネ程度にお遊び感覚でお楽しみ下さい」という文言を見逃さなかった。
「まあ、単なる遊び程度に考えろということだ」
 熱の無い返事に再び気分が沈んだエルフリーデは、それでも夫に第一子である男児の名をつけるという慣習に従った責務を課した。
「お前の最初の息子なのよ。父親として、それくらいの責任は果たしなさい。今から候補を考えておきなさい」
 今度は、ロイエンタールの方が言葉に詰まる番だった。
 通常、名家の長男の名には、代々その家で受け継がれる名があったり、父親の名にミドルネームをつけたり、祖父や曾祖父、祖先に世に名を遺した人間がいる場合などは、その名を受け継ぐのが習わしだった。
 だが、父とのいい思い出のないロイエンタールにとって、父親の名を付けるなど論外だったし、自分自身の評価すら高くない彼にとって、自分と同じ名を付けるのも抵抗があった。
「生憎といい案が浮かばない。お前の親族の名前でもかまわんぞ」
 それを更なる投げやりな態度ととったエルフリーデは、ついに不満を爆発させた。
「お前は、やっぱり私が自分の息子を産むのが嬉しくないのね。…私達、確かに政略結婚だったけど…それでも、愛し合って、お互いを好きになったから子供を授かったって思ってたのに…でも、やっぱりお前にとって、私が産む子供なんて、どうでもいいのね…」
 成層圏の青の瞳に薄らと涙を浮かべて夫を睨む幼妻に、さすがのロイエンタールも自分の態度がまずかったことに気付いた。
「興奮するな。胎教に悪いぞ。別にどうでもいいわけではない。俺は父親とも母親とも関係が最悪だったからな。子供の名前と言われても咄嗟にいい案が思いつかんだけだ。俺の名は、母の実家が没落する前に権勢を誇った何代か前のマールバッハ伯爵の名前だそうだ。お前が名前にこだわるなら、俺にも考えがある。ミッターマイヤー夫妻を名付け親に立てよう。俺は今でも人の親になる資格がある男か疑問だが、名付け親がまともなら、子供もまともに育つだろう」
 エルフリーデの気持ちが少し落ち着いた。
 通常、帝国の権門の家の子は、両親以外では、一族の長か皇族が名付け親となる場合が多い。他の慣習として、父親同士が固い友情で結ばれている男同士が、互いの第一子の名付け親となって、生涯家族ぐるみで付き合いを続けるという場合も、特に軍人家庭の場合に多く見られていた。
 帝国軍の双璧の片割れを実父に、もう一人を名付け親にもつ子供とは、どれほど幸福な子であろうか。
 エルフリーデのご機嫌が直ったのがわかると、ロイエンタールは、早速自分もミッターマイヤーに話をしてみるので、お前も夫人にFTLで相談すればいいと言って、一緒に階下の食堂へ降りていった。
 普段静かな夕食の席でも、話題は性別が判明したばかりの子供のことでもちきりだった。
 ゴットルプ子爵夫妻も、素直に喜んでくれて、息子のマルティンは、男の子と聞いて更にうれしそうで「大きくなったら一緒に遊ぶんだ」と言ってはしゃいでいる。逆に下の女の子の方は、早くも「次は女の子を産んで下さいね」と伯爵夫人におねだりして、周囲を和ませた。
 エルフリーデは、子供に恵まれないフレデリーケに気遣い、あまり喜びを露わにしなかたが、フレデリーケ自身が涙ぐみながら、しっかりと手を握り締めてくれた。
「これで…これでエルフィーは、ロイエンタール元帥の本当の家族になるのね。ヴァルハラにいらっしゃるお父様もお母様も、さぞお喜びでしょう」
 そう言って、心から祝福してくれた。
『もうすぐです。もうすぐあなたも幸せになれます』
 エルフリーデは、密かに計画している件を今は彼女に告げられないのがもどかしかった。
 本棟の夕食時に合わせて、東西のゲストハウスに一時避難している軍人達にも、執事から主人に男児が授かった祝の酒として、ヴィンテージものの白ワインが貯蔵庫から放出された。
「未来の名将に乾杯!」
「元帥ご夫妻のご多幸を祝してプロージット!」
 仮住まい中の独身男達は、次々と威勢のいい声で祝杯を挙げた。
 特に、統帥本部に属し、ロイエンタールの直属であるベルゲングリューンやレッケンドルフは、常の彼等からは考えられないほどテンションが高かったらしい。
 夕食後、再び部屋に戻り、就寝の準備を終えたエルフリーデは、昼間、病院で渡された健康チェック機器を早速試してみることにした。
 まず、自分の名前や年齢、体重、身長などを入力して、右手でペン型の機器を持ちながら、センサー部分を左腕に当てようとした時、ロイエンタールが一足遅れてバスルームから出て来た。
「何をしている」
 エルフリーデは、バスローブを羽織ながらカウチの隣に腰かける夫に、小さな機器の説明を行った。
「フェザーン人の平均寿命は、戦死者を除いた帝国人より20年近く長いそうよ。それも、こういったものが民間にまで広く普及しているせいだと先生方が仰ってたわ」
「ふむ。俺も最近聞いた。遠からず軍にも導入され、各軍人に一つづつ支給される予算を組んでいるそうだ。兵士達の定期健康診断の費用が大幅に削減されることになる」
 と言って小さな機械を眺めながら、自然な仕草で幼妻の身体を軽く引き寄せると、風呂上りで薄いピンク色に染まった頬に軽く口付ける。
 エルフリーデは、心臓の高鳴りを抑えながら、平静を装いセンサーを左手首に当てた。
 10秒後、肌から離した機器を端末に接続すると、表示された数値を見たエルフリーデは、途端に表情を曇らせた。
「変だわ。他は全部正常値なのに、脈拍数だけが異常に高いわ。運動した後でもないのに、100を超えてるなんて…」
 心配そうな幼妻の隣で、ロイエンタールは鼻白んで聞いていた。
「変ねぇ…事前にテスト済なはずだから、壊れている機械を渡すはずないのだけれど…」
 エルフリーデは、そう言うと何か思いついたように機械を操作し、今度はセンサーをロイエンタールの額に当てた。
「何をする?」
「じっとしていなさい。すぐに済むわ」
 きっかり10秒後、検査機器が測定終了を告げるグリーンのランプを点灯させると、エルフリーデはすぐに機器を端末に接続して結果を表示させてみた。
 ロイエンタールの脳波も血流も正常で、腫瘍や脳動脈瘤の可能性を示す数値もない。しかし、分泌脳内物質の項目で、ドーパミンという成分が平均値を遥かに超えた高い数値を示していた。
「お前、すぐに病院へ行きましょう。お前ならこの時間でも診察も検査もしてくれるはずだわ」
 すっかりロイエンタールが何か重病を抱えていると勘違いしたエルフリーデは、すぐに執事や侍女に連絡しようと電子呼び鈴に手を伸ばそうとする。
 数値が示した意味を理解できているロイエンタールは、慌てて幼妻の腕を引き寄せて、それを制止した。
「俺はどこも悪くない。この数値は、俺にとっては正常値だ」
「何を言ってるの? 普通の2倍以上にもなっているのよ」
「2倍どころではない。これから明日の朝にかけて、5倍にも10倍にもなるが、俺は死んだりしないから安心しろ。今からそれを証明してやる」
 発情した獣のような双色の瞳で射抜かれると、エルフリーデはその場で身動きが出来なくなる。
 結局、そのまま寝台に抱き上げられて、いつものように過ごしたが、確かにロイエンタールは病気ではなさそうだった。
 エルフリーデが『ドーパミン』について知ったのは、出仕する夫を見送ってから、端末を外部ネットワークに接続して検索した後のことだった。


 新帝国歴1年11月1日、レンネンカンプの死が公表され、ごく一部の軍部の人間のみで密葬が執り行われた。
 皇帝の代理人たる高等弁務官に死に対して、帝国は同盟政府に対して何らかの軍事行動に出るものと思われていた。
 翌2日、帝国政府は、去る22日の爆弾テロ事件の全容と犯行グループを発表した。
 主犯格としては、地球教徒の残党と、逃亡した前自治領主アドリアン・ルビンスキーの一派とされたが、その手先となり、事前に爆薬を設置し、起爆スイッチを入れたのが、帝国人の高級官僚だったことも隠されることなく発表された。
 エルフリーデは、たった一度だけとはいえ、リンザー邸で顔を合わせていた人物の逮捕に、ショックを隠せなかった。
 これは、フェザーン人の間でも評価が分かれた。
 結局のところ、平和なフェザーンに帝国の宮廷闘争が持ち込まれたと解釈する者と、一方で自分達に不利な事実を包み隠さず公表した帝国政府の誠意を称えるべきと考える者もいる。
 どちらが正しいのか、エルフリーデにはまだわからない。
 大学で学び、もっと大人になればわかるようになるのか、今のところ答えは出ない。
 だが、時代は確実に動いている。それだけは、肌で実感できた。
 戦いの時代は、まだ完全に終焉を迎えてはいなかった。

コメント一覧

ゆうやん (06/07 21:55) 編集・削除

コメント一番乗りで登場w
今朝たしかお邪魔したときには小説あがってなかったような記憶があるのに更新日時が月曜日とはこれいかに?時差ですかねぇ?

嵐の前の静けさの回なのにやれロイロイのドーパミンだのエルフィの脈拍だのにすっかり変な方向のスイッチが入りました。翌日のエルフィはさぞかし画面の前で赤くなったり怒ったり大変だったことでしょうw

姉上のところに現れたおば様、これから何が起こるのか楽しそうで周囲を和ませているだけに大きな嵐の予感がしますね。
お忙しいのに更新ありがとうございました。今月は双璧舞台で強行帰国もあるとのことなのでお体には気をつけてくださいね。

追加:ロイロイのどう喜んでいいのかわからない描写がなんというかかわいい(すでに彼も年下)うちの方だったらどうなるかも妄想して今夜はなかなか楽しめそうですw

Jeri (06/07 23:23) 編集・削除

>ゆうやんさん
いつもコメありがとうございます。
既に、単なる「誰にも推し量れない気持ち」の問題ではなく、惚れてることが、科学的、医学的根拠により証明されてしまった、漁色家元帥の末路を、これからも存分にお楽しみ下さい。(鬼

べる (06/08 11:17) 編集・削除

お久しぶりです。
やっと、感想が書けますわ。

前回のハーレクインで出て来たエピで、
『母親似だったロイロイが思春期以降、父の特徴を示して来た』下りにも涙がつーーーーーーーんと来ましたが、
今回のどうしていいかわからないロイロイにも、超萌え。
で、またもや妊婦に襲いかかっているんだけど、
ヤイ、コラ!
貴様、火傷はどうした!ちょっとはおとなしくしやがれロイロイ!!

Jeri (06/08 12:55) 編集・削除

>べるさん
ロイロイは、パパとママのいいとこ取りで生まれた超優良遺伝子集合体の男なんで、そんな奴が「人の親になる資格がない」とかほざいているのは、わがままと甘ったれ以外の何者でもない。
ふつーの一般庶民は、あんたより顔もスタイルも能力もずっとずっと劣っても、それでも一生懸命自分の血を残す努力をしてるのさ。
でも、そんな超ワガママ甘ったれ男のロイロイに萌えてしまうのが、ロイファンの性ってやつなのかw
「ああ、そうだ。俺、背中に大火傷してたんだっけ。すっかり忘れてた」Byロイロイ

非公開 (06/08 21:26) 編集・削除

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Jeri (06/08 23:31) 編集・削除

<アンネリーゼの正体
実はこの方、別の名前で以前に登場済です。
アンネりーぜは本名で、長年呼ばれていた方が偽名だったという複雑な過去を持ってます。
山荘に来た理由は、もちろん、姉様を殺す為です。

>内野と大沢のキャストが逆
それ、考えつきませんでした。
が、すごい原作にはまってたかも。

<ドーパミンを出しまくるロイ様
いいかげん自重しないと、ほんとにヤバイかもw

非公開 (06/11 23:30) 編集・削除

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